2017年06月04日号 01面

2001年から、三浦綾子作品を読むことを通して、信徒が互いに学び合い、未信者への伝道の機会ともなってきた三浦綾子読書会(森下辰衛代表)が、5月22日から24日、都内の教会を会場に「三浦綾子読書会牧師会全国大会」を開催した。「牧師会」は12年から地域で開かれていたが、今回は東北、東海、関西からの参加者も見られた。講師は森下、宮嶋裕子(三浦綾子初代秘書)、長谷川与志充(三浦綾子読書会顧問)の3氏。読書会をセルグループなど教会の活動として活用しているケースも少なくなく、それを指導する立場にある教職者たちの、研鑽と交わりの機会になった。 【髙橋昌彦】
DSC09950

 1日目は、「三浦文学が示す牧師像」と題して森下氏が講演、その作品において、牧師(教職者)がどのように描かれているかを紹介した。

 『ひつじが丘』では、牧師の広野耕介は、駆け落ちして出て行った娘の奈緒実を、いつかきっと帰って来ると待ち続ける。娘に暴力を加え続けたのち、病を得て亡くなった夫の良一の葬儀では式辞の中で、良一を責め続けた娘奈緒実の罪を自分の罪として告白している。「自分は罪人である、ということが耕介の原点。その原点に立つ時、奈緒実も悔い改めに導かれていった」

  『細川ガラシャ夫人』で、細川忠興の妻玉子に対しコスメ修士は、質問に答え、自らの境遇を語り、聖書のみ言葉を示し、神がいかなる方であるかを教え、自分自身の証しをする。「『神ハ、異国モフルサトニ変エテクレマス』という言葉に見られるのは、コスメ神父の、神は苦難を恩寵に変える、という確信である」

 大工の棟梁鈴本新吉の半生を描いた『岩に立つ』では、娘が幼稚園で覚えてきた食事の祈りに感動した新吉に、フィンランド人のサオ・ライネン先生が語る神様の話に注目する。「カミサマハ、ケッシテバチヲアテマセン」という言葉に、新吉は「(しめた! 罰を当てない神がいた)」と驚く。「クリスチャンは『罰バチ』という言葉は使わない。しかし『バチヲアテマセン』という言葉は、自分の家族の不遇を神からの罰と言われ続けた新吉にとって、驚きとなった。神様をどのように紹介するかが重要」

 治安維持法下で獄死した小林多喜二の母セキを描いた『母』では、セキが牧師の「近藤先生」に心を開き、信頼を寄せていく様が描かれる。多喜二が死んで「神も仏もあるものか」と言うセキに、近藤先生はセキが多喜二のために作ったぼた餅の味が忘れられない、と言う。近藤先生が語る十字架の話に、我が子を失ったセキは、「神様だって、どんなにかったべな」と考える。「わだしの葬式はキリスト教で」と言うセキに「一緒の所に行こうね」と言って手を握る。「多喜二は天国にいるべか」と問われて「天国にいないとは思えませんよ」。誰にも見せぬつもりでいた、セキが自分の気持ちを書いた紙を見せられた近藤は、しばらく何も言わずにいた後、「イエスは涙を流し給う」の聖句を開いて見せる。森下氏は、「この時、セキは自分は一人ではなく、イエスがそこにいて泣いていてくれたことに気づく。セキにひたすら寄り添い、じっくり話を聞き、最後に御言葉を届けた近藤の姿勢をここに見ることができる」と結んだ。
DSC09963

 続いて長谷川氏が、それに応答する形で、『氷点』に挿入されている「洞爺丸台風の場面に登場する宣教師の姿」に言及。ある宣教師は、自分の救命胴衣を、困っている若い日本人女性に譲って死んでいく。そのやりとりに、宣教師の姿勢がうかがえる。「ドーシマシタ?」と、あえて相手に関わっていく。「ソレハコマリマシタネ」と、相手に同情(共感)する。「ワタシノヲアゲマス」と、相手に実際的な助けを与える。自分にできる最高のものをもって。それは、救命胴衣であり、イエス・キリスト。「アナタハ、ワタシヨリワカイ」相手の長所(賜物)を示す。それは彼らがこれからもより善く生きていくため。そこが牧師の本領。「ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」相手の人生に使命を与える。それは賜物を用いさせること。

 最後に「三浦綾子の作品は、これらのことを語りかけてくれている。これからもそこにある牧師の描写に注目していきたい」と語った。

 講演後は、参加者が小グループに分かれて分かち合った。講演の内容にとどまらず、普段それぞれが行っている読書会の様子なども分かち合い、良い交わりの時となった。「牧師、教職者だけで語り合える機会が与えられていることは貴重だ」との声も上がった。