2017年06月04日号 4・5面

イエス様が弟子たちのもとを去って行かれることを語られた時、弟子たちはよく理解できずに悲しみ不安に思いました。そのため、イエス様は十字架にかけられる前にも復活後にも、「父の約束」として御霊が弟子たちに与えられることを教えられました。イエス様が天に戻って行かれ、姿が見えなくなっても、「助け主」なる御霊が弟子たちとともにおられ、真理を教え、力ある御業を行なわれることを語っておられたのです。全世界に出て行き福音を伝え、信じる人々を弟子とするように命じられましたが、その前に「父の約束」を待ち望み、聖霊のバプテスマ(満たし)を受け、聖霊の力を受けるよう語られたのです。
ペンテコステは、まさに父の約束の成就の日となりました。イエス様の昇天の後、イエス様の教えを守って父の約束である聖霊のバプテスマ(満たし)を受け取ろうとして、弟子たち百二十人は祈りに専念していました。すると、イエス様が地上を離れて行かれて10日後のペンテコステの日に、聖霊が激しく下られ、弟子たちはみな聖霊に満たされたのでした。koyama

①恵みによりキリストの証人として用いられる
ペテロや他の弟子たちは、イエス様の十字架に直面した時に裏切り、逃げ、隠れる中で、自分の力でキリストの証人になることはできないことを嫌と言うほど教えられました。みなさんや私も同様な経験があるのではないでしょうか。心の底から本気で、立派な信仰者でありたい、もっと主イエス様のために役に立ちたいと願いながらも、力のなさを痛感しているのではないでしょうか。幸い、キリスト教は、「恵みによって救ってあげたから、あとは自分の努力で頑張りなさい」式のものではないのです。恵みによって救われ、恵みによって生かされ、恵みによってキリストの証人として用いられるのがキリスト教なのです。

②イエス様の模範
イエス様は神の御子でありながら、処女マリアより生まれ、私たちと同じ肉体を取って人となり、この世に来られました。その生涯の大目的は、十字架にかかり、私たちの罪を贖うことでしたが、もう一つの大事な目的は、私たちの信仰の模範者となることでした。完全な神の御子であり、同時に完全な人であったイエス様は神の御子としての権能を用いるのではなく、内側に宿っておられた聖霊に満たされ、百パーセント聖霊に依存した生活を送られました。地上での奉仕の業は、すべて聖霊の力によるものでした。
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」(使徒10・38)
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1・8)

③ペンテコステの目的 ペンテコステの目的は、キリストの復活と主権を証明し、キリストの弟子たちがキリストの証人として生きることができるよう御霊の力を与えることにあったのです。(参照 使徒2・33)
聖霊のバプテスマを経験したペテロと他の弟子たちは、50日前とはすっかり別人になりました。迫害をも恐れない大胆な弟子に変えられたのです。ペテロの大胆な説教により、この日一日で、三千人ほどが弟子に加えられました。
私たちも聖霊のバプテスマを経験する時、主イエス様の復活を理性抜きで実感し、主イエス様が生きて働いておられることを確信させられます。

④ペンテコステの祝福は、今の時代も注がれている
「なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」(使徒2・39)
ペンテコステの祝福と力は、ユダヤ人にも日本人にも、すべてキリストを信じる人々に約束されています。また、この経験は、はるか昔の初代教会時代に一時的に与えられたものではなく、今の時代にも与えられるものです。
特別に修練を積んだ敬虔なクリスチャンにだけ与えられるのではなく、恵みによってキリストを心から救い主として信じているすべての人に与えられるものなのです。
私自身のことですが、イエス様を信じてまだ一週間しかたっていない時に、100人くらいの聖会に参加しました。その集会の中で、聖霊の満たしを求める人々のために祈りの時が持たれました。私は前に出て祈ってもらう勇気がなくて、椅子にすわったままでした。集会の終わり頃になって、急に求める心と信仰が与えられて、「神様、私は前に出て行くことができませんでしたが、今からでも、この場において、私に聖霊のバプテスマを与えることがおできになると信じます。今、あなたの力で私を満たしてください」と座っている所で祈りました。
その時です。突然、上からものすごい力が加わってきました。自作自演をやっているのではと一瞬上を向いて確かめますと、確かに神様が祈りに答えて聖霊の力を注いでおられることが分かりました。私は自分の祈りが偉大な神に聞かれたことと、自分のような者を覚えてくださっていることに感激しました。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7・38)」とは、このことか、と実感できるほどに腹の底からこみ上げるものを感じました。