2017年07月09日号 2面

日本・韓国・台湾間の教会の連帯と交流を厚くし、世界宣教に貢献することを目的として1973年に始まった、東北アジア教会宣教協議会(勝山健一郎日本委員会委員長)の第44回が、6月20日から23日まで、日基教団・千葉本町教会(千葉市中央区)を会場に行われた。「希望ある終末信仰」の主題のもと、礼拝、講演、証しと祈り、分団討議、全体協議を通して各国の宣教の課題を共有、最終日には約60人の参加者により共同声明が出された。【髙橋昌彦】

21日の主題講演では、日基教団派遣宣教師として韓国ソウルに在住する洛雲海氏(セムナン教会日本語礼拝担当、長老会神学大学校助教授)が、「希望の教えとしてのキリスト教終末論」の題で講演した。

──キリスト教終末論は希望の教えである。それはいわゆる「世の終わり」的な終末信仰と呼ばれるようなものとは区別され、神の救いの啓示に基礎を置き、倫理的な性格を持つが故に、現実社会に対して大きな関心を持つ。しかし、キリスト教神学として確固とした終末論というものはなく、論じる神学者ごとに相違している。それはいまだ「鏡にぼんやり映るものを見て」(Ⅰコリント13・12)論じているからであるが、「その時には、顔と顔とを合わせて見ることになり」「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることにな」る(同)が故に、希望の教えなのである。DSC00677
この世界には代表的な世界観として、円環的世界観と直線的世界観がある。前者は、世界は始めも終わりもなく永遠に循環し続けるものとして考え、人間は自然の一部に過ぎず、個々の自我に特別の価値が置かれることはない。後者はキリスト教の世界観であり、世界は神の天地創造によって始まり、終末を迎える。人間は自然に属しながら、自然を支配し、自然を超える歴史に属し、歴史全体を越えて神の超越性に与る存在でもある。時間が無限に続くと言う教えはキリスト教にはない。
ならば、永遠の命とは何か。それは、肉体の死後、霊魂が無限に生き続けるということではない。「永遠のいのちとは、…イエス・キリストとを知ること」(ヨハネ17・3)である。では、「知ること」とは何か。それは究極的には「神とキリストと交わり、一つになること」「その血と肉に与ること」だと言って良い。
一方その人間の死は、聖書において、罪と結合して捉えられる。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6・23)。死の問題は、罪の問題の解決なくしてはありえない。人間の真の生は生きている神との交わりの中にあるが故に、死はこの神との交わりの喪失において経験される。死に対するキリスト教の答えは復活である。神の生命を与えられること自体が真の意味での復活であり、それ故に復活は希望となる。真の復活の後には死は無いものとなり、あるのは生命だけである。しかもからだが復活する。生命自体がからだの復活とともにまったく新しくされる。「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われた主イエスこそ終末における希望の根拠である。
最後の審判は、歴史と世界に対する神の総決算である。世の不条理や悪の問題に対する最終的答えとなるが、審判自体は神の究極の目的ではない。神の目的は、審判を通しての救いの成就、神の国の完成であり、個人の救いの完成であると同時に世界と歴史の救いの完成である。
終末論は希望の教えである。世の救い主であり成就者であられる神にのみ、すべての問題の究極的解決と神の国の完成を期待する。しかし、だからといって、キリスト者は何もしないで良いというわけではない。終末論は、この世における倫理性を要求する。キリストの弟子として、社会における具体的愛の実践を通して、神の国の完成が早まるように生きることに努め、終わりの日に備えるのである。──

最終日に出された声明では、終末論がキリスト教信仰と宣教の一つの重要な核心であること、多文化共生の現代においても終末への希望こそが真実な希望であること、各国ともに伝道の停滞と信仰の継承に課題を持つこと、が確認された。また翌24日、eAst21asiaと共催で青年セミナーが開催された。