吉野作造肖像(1920年代)
大正デモクラシーをリードした宮城県大崎市出身の政治学者・吉野作造(1878〜1933)は、2018年1月29日に生誕140年を迎えます。

 最も広く知られる吉野の業績は、1916年1月『中央公論』論説での「民本主義」の提唱です。

沿って運用すべきものとする「民本主義」の2つの意味があり、後者が憲政の基礎的精神であるとして、帝国憲法の枠組みの中で選挙権拡大と政党内閣による民主的な政治を目指す主張でした。宮田光雄氏(東北大学名誉教授)は、主権論を外に置いた吉野の論は妥協ではなく、日本政治の重大な転換点において「最も現実的な有効打を放つ論理」だったと評価しています(「吉野作造先生と私」『吉野作造研究』13号、2017)。1918年には黎明会を結成し、執筆と講演の両輪でデモクラシーの普及に尽力しました。

民主的な政治への着実な道筋を示した吉野作造。その思想的基盤にキリスト教があったことはよく知られます。学生時代にYMCA寮での生活を通じ育んだ友情と人脈は、吉野にとって生涯大きな支えとなりました。吉野は社会や国家を論じる際、「団体生活」という言葉を好んで用いています。その根本は、生活を共にする人間同士が信頼しあい、各々の責任を果たすことです。「あらまほしき姿を人の中に発見する事は自分の進歩」(「社会と宗教」、1921)だと吉野は語ります。人間は互いを信頼し、高めあいながら無限の進歩を遂げる—それがキリスト教に根ざした吉野の人間観であり、デモクラシーの根本精神と位置づけたものでした。

 こうした吉野の人間観は、学者以外の活動にも反映されます。その一つが貧困地域で産科病院を運営した賛育会です。吉野は1918年、その設立に加わり、さらに関東大震災後には理事長となり、病院の立て直しに尽力しました。

 賛育会理事長として吉野が行った改革に、無償だった診療の有償化があります。無償での医療を続けることは、利用者の自治運営という社会事業の最終目標のためにならないと吉野は考えたのです。自治運営とは病院と患者が互いに信頼しあい、各々の責任を果たすこと—すなわちデモクラシーです。吉野にとって社会事業とは、デモクラシーという理想に向け人間の進歩を促すことに他なりませんでした。

 今年は黎明会と賛育会の設立から100年でもあります。大崎市の吉野作造記念館では企画展や講演会の他、高校での主権者教育、地域の若者を対象としたデモクラシー塾など、未来のデモクラットを育む新たな取り組みを行っています。最後に、吉野の言葉を紹介します。

「細目の異見は如何様にも調節の道はあるが、どうしても和合することの出来ない終局の差異は、人類を相愛し相援くるものと観るか、又は相離れ相闘ふものと観るかの点である。」(「斯く行ひ斯く考へ斯く信ず」、1924) (レポート・佐藤 弘幸=吉野作造記念館学芸員)

写真=吉野作造肖像(1920年代)。吉野作造記念館提供