2018年04月01日号 01面

Picture 25ed

大坂太郎 日本福音主義神学会 東部部会理事長 アッセンブリー ・山手町教会牧師

 『この人を見よ』はドイツの哲学者であり、最近では「超訳」でもおなじみのニーチェの自伝ですが、その由来は聖書にあります。引用個所はヨハネ19章5節。いばらの冠をかぶらされ、紫の衣を着せられて裁判の座に引き出されたイエスに向かって総督ピラトが「見よ、この人だ」と言う、あのくだりです。

 またこれを聞くと「まぶねの中に(讃美歌121番)」を思い出す方もおられるでしょう。そこに示されているイエスは誕生から死に至るまでの人間イエスであり、そのクライマックスはやはり十字架にあります。確かに私たちが見るべきイエスの姿の多くは彼の生の記録の中にあります。しかし聖書には復活後のイエスの歩みについても書かれています。以下有名な『エマオの途上(ルカ24章13〜35節)』に見られる復活のイエスの姿を見ていきましょう。

一、さりげなく寄り添い「隣る」お方

 日曜の夕方のこと。イエスはエルサレムからエマオに下っていく道を歩いていたクレオパともう一人の弟子に近づかれました。彼らの希望を粉砕した十字架の事実について語り合う二人にイエスは寄り添います。その仕方は最近はやっている「る」という感じでしょうか、静かに同じ道を歩き出したのです。

 おそらく最初はこの不思議な同行者のことなど眼中にはなく彼らはあれやこれやと語っていたことでしょう。その途中でイエスは「その話は何のことですか(17節)」と彼らの話に加わりました。また「どんなことですか」と最小限の質問をしながら、弟子たちに事のを語らせ、彼らのてついた心を開かれました。

 この姿、何かに似ています。カウンセラーです。しかも凡百の相談員ではなく、熟練したカウンセラーです。さりげない接触と傾聴、そして最小限の質問によってクライエントが過去を語り、物語を紡ぎなおす手伝いをする。復活の主イエス・キリストにはそうした「隣る」「寄り添う」姿がありました。

二、大胆に教えるお方

 復活のイエスにはカウンセラー的要素があるのは確かなことですが、復活の主イエスはそれに留まるだけのお方ではありません。彼のもう一つの姿、それは25〜27節にある「教え手」のそれです。

 3人の間に十分な信頼とコミュニケーションができたところで、さり気ない同行者は豹変し「ああ、愚かな者たち」と彼らをしました。ずばりと本質に切り込み、彼らを取り扱ったのです。何によってでしょう。真理によってです。かの傷心の弟子たちはイエスのことを「行いにもことばにも力のある預言者だ」とは言っていましたが、その先にある、かつてイエスご自身が教えられた苦難を通しての栄光、死を超えての復活について十分な認知も理解も信仰もありませんでした。結果彼らは主の復活の知らせを受け入れられず、心痛のうちにエマオへと下って行ったのです。
その間違いをイエスは正しました。単に「よしよし」と聞き、ハンカチを差し出すだけではありません。自らの弟子として彼らを生かすために、イエスは正しく教えられたのです。ちょうど馬車(coach)が荷物を乗せて目的地に運ぶように、イエスは人生のコーチよろしく彼らを真理によって導かれたのです。

三、いのちを分け与えるお方

 さりげなく近づいてきた見ず知らずの人(と彼らは思っていた)と語らい、なじられ、その上で教えられていく中で彼ら傷心の弟子たちの心には何らかの変化が生まれてきました。それは彼らがなお歩いていこうとするイエスを引き留めたことや、イエスが去ってから「私たちの心は内で燃えていたではないか。(32節)」と言っていることに明らかです。そしてそのきざしはある事件によって現実になります。彼らは自分たちにみことばを教えてくれたこの人を師と認めたからでしょう、普通は招いた側で行うパン裂きと食事の祈りをこの客人である旅人(イエス)に任せました。その時、彼らはいつか見たことのある光景を目のあたりにしたのです。あの日夕暮れのガリラヤ湖のほとりで、パンを裂き、餓えて疲れた5千人の群衆を養った手、それと同じ手がそこにありました。その瞬間、彼らの目ははっきり開け、自分の目の前でパンを裂いているお方がだれであるかが解ったのでした。それは彼らが復活の主のいのちにあずかった瞬間でした。

  *    *

 復活祭のこの日、「この人を見よ」という言葉に応答し私たちが見るべきは自らを誇らせた末に発狂して果てたドイツの哲学者ではありません。また十字架につけられたイエスのでもありません。私たちが見るべき「この人」は私たちの全生涯に隣り、教え、いのちを与える復活の主、イエス・キリストです。使徒パウロは「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です(Ⅰコリント15章19節)」と言っています。

 愛するキリスト者の皆さん、私たちの確固たる希望を「単なる希望」にすり替えてはいけません。永遠のいのちを与える主の復活、その事実を信じ大胆に告白して燃える心で今日を生きましょう。主はよみがえられました。ハレルヤ!