沈黙という音―日本 2月に来日のヤンシー氏、帰国後の思い

2018年04月22日号 08面

 2月18日から26日まで東北、関東、九州、大阪を訪問した、米クリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏が、3月30日に、日本訪問について自身のブログに投稿した。「静けさ、沈黙=Silence」をキーワードに、福島県の帰還困難区域にある教会、キリシタンと原爆の歴史をもつ長崎を中心に振り返っている。『神に失望したとき』や『ソウル・サバイバー』などの著作があるヤンシー氏は世界の苦難の場所を歩いてきた。今回の取材は今後著作などにも反映されていくだろう。まず最初の受け止めとしてヤンシー氏の言葉を通し、日本にある声に耳を傾けたい。(ブログから。ヤンシー氏訪問時の模様は3月4日、11日号に既報)

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 福島

 大きな災害にはいろいろな音が伴う。地震は地面が揺らぐ音から始まり、何か裂けている音がする。そして、本が棚から落ち、器が床を打つ。やがて、屋根がきしみ、建物そのものが破壊されていき、土台が崩れる音へと続く。津波の音はもっと静かである。しかし、地震よりも破滅は大きい。海自体が盛り上がり、車、電車、森、また町全体を破壊していくのである。原子力発電での放射線被害は音を立てない、しかし、音のない静けさが恐れを倍増させる。

 2012年に私は東日本大震災1年を記念する旅をした。1万9千人の死者、破壊された家は100万を超えた。(『消え去らない疑問 悲劇の地で、神はどうして…』[いのちのことば社、2014年]でこのことを書いた)

 そして先月、三重の災害から7年になる年、私は福島第一原子力発電所の周りの町々を佐藤彰氏(保守バプ・福島第一聖書バプテスト教会)の招きで訪問した。放射能の影響で教会、自宅を捨てなければならなかった牧師である。彼から、また、他の証人から、恐れと失ったものについての話を聞いた。

 地震で破壊され、途方に暮れていた2日間を過ごしていた中で、原発近くの住民たちは、11年3月13日、鳴り響くサイレンの声を聴いた。警察車両で鳴り響く街の中、人々は45分間にそれぞれの家を脱出するように命令された。「物は持たないで」と警告された。「すべて、汚染されています!」と。原子力発電所から20キロ以内に住んでいる人たちはすべて、用意された車両バスにのり、脱出した。合計15万4千人である。

 その時から7年。人間の住まなくなった町々に入った。まず、サイレンス、静けさがあった。車の音も、子どもの遊ぶ声も、テレビやラジオの音も、いわゆる現代の文明の音は何もなかった。聞こえるのは、誰もいない通りを歩く防護服を着た私たちの服の擦れる音だけであった。終末の映画を見ている感じである。

 スーパーマーケットでは地震でものが床に落ちているが、そのままの姿である。車の販売店では新しい車が並んだままで、しかし、購入者はだれもやってこない。建ったばかりの病院が警察のバリケードの背後にだれもいない中でそのまま建っている。横の通りには雑草がいっぱい生えている。

 「最初の2、3年は牛、馬などが通りを歩きまわっていた」と佐藤牧師は言う。「私たちは避難は一時的で、すぐに帰ってこれると思っていた。それで、みんな犬は鎖につないで逃げたのです。そのため、犬たちは餓死してしまった。しばらくすると、いのしし、タヌキ、豚が町に出て来て、店の中を歩きまわったり、食べ物を見つけ次第食べて歩いた。長い間、私たちは自分の町に入れなかった。今は許可をとれば、中に入れる。しかし、何も持って出られないし、触ることもできない」と語る。

聞こえるのは防護服を着た私たちの服の擦れる音だけ

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 佐藤牧師が昔住んでいた自宅のキッチンに行ってみると、カウンターには腐ったオレンジジュースの箱、腐ってしまったバナナがあった。床には動物たちの糞がいたるところにある。彼らが食事を求めて入ってきていたのである。リビングの床には地震で落ちた本があった。中には私の本の日本語版もあった。

 それから、娘さんの部屋に案内された。「ここには何度も来ました。しかし、15歳以下の子どもは入れません。娘は8歳の時に避難し、2週間前初めて自分の部屋に戻ってきました。そして、自分が使っていたおもちゃやぬいぐるみを見ると、彼女は涙を抑えることができませんでした。妻も心がとても重くなったと言っていた」と佐藤牧師は話した。

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 建物に入るたびに私たちは新しいビニールのたびをはき、出る時にはそれを中に破棄して出ていった。佐藤牧師の教会に入った時である。「私たちのまだ、新しい、傷ついていない講壇、礼拝堂です。100年は持つと思っていました」とボソッと語られた。まだ真新しい器材、コピー機、コンピューター、音響機材など。また別の建物では、真新しい納骨堂。中には7年前までに亡くなった方の写真、骨が収められている。「私たち日本人は先祖を大切にします。彼らをこのまま、ここにおいておくことはとても心苦しいことです。でもしかたありません」と。

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 その間、佐藤牧師のアシスタントの一人が線量計で放射線量を測っていた。「東京は平均0・05マイクロシーベルトです」と言いながら、カーペット、植物に線量計を向けると、8・5となった。「心配ないですよ。メルトダウンの時には125でしたから」と彼は私を安心させようとしてくれた。

 突然の避難の後、佐藤牧師の教会のメンバーたちは日本をあちこちさまよった。福島で生き残った人たちと同様、各地で放射能汚染を恐れる人たちからいろいろないじめを受けた。レストランでは断られ、病院でさえ、診察できませんと言われたこともあったという。「年寄の方は先ほど見た病院の中で3日間置き去りにされていました。そのうち何人かは避難生活中に亡くなりました。どこに行ってものけ者にされた感じでした。羊のない羊飼いのようでした。やっと、残された30人はドイツミッションの所有する東京の西部にあるキャンプ場に避難場所を見つけました。そこに2年間滞在しました。やっと見つけた歓迎と安全のシェルターでした」と佐藤牧師は述べた(つづく)。