2015年02月01日号 3面

 20年経った今も体に刻み込まれたあの激震が記憶から離れません。現在でも、「あっ、また来るんじゃないか」と緊張してしまいます。生涯忘れることのできない強烈な体験です。
その激震は最初の揺れに関しては観測史上最大で、対応も何も出来ないものでした。多くの被災者は布団と夢の中でした。2階が崩れ、瞬時に下敷きで亡くなった方は、何も意味が分からずに死んでしまったのです。西宮市内の六甲山の中腹にあった我が家は、倒壊からは免れましたが、家の中は散乱し、基礎が破壊されて半壊と判定され、2年後に再建し、両親と同居することとなり、今日に至っています。
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この震災は、苦難の道も通りましたが、結果的には最良の結果を得たと私は考えております。神戸の教会、甲子園の教会と2つの教会を導いておりましたが、2教会とも大きな被害に遭いました。甲子園聖書教会(現・甲子園プレイズチャーチ)は震災同年8月、最初の再建教会として見事に再建されました。多くの方々の支援と信仰の決断でキリストの栄光となりました。
神戸の教会は長田区にあり、震災直後の激しい火災の中で奇跡的に類焼から免れました。今も震災翌朝、共同通信社のヘリから撮った写真は宝物のようです。共同通信社から買い取って、当時の事情がもっともよく分かる写真として多くの方々にお見せしています。
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長田区は被災地域でも最悪の被害地域となりました。火災という二次災害のためです。空襲後のような惨状で、震災最深部でした。復興が最も遅れた地域の真ん中に教会もありました。当時、倒壊と類焼から免れた教会堂が被災者救援のセンターとして開放され、世界中から、国内からのボランティアを多数受け入れ、教会で寝食を共にして被災者たちを助けました。
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震災直後から車庫を臨時の厨房としてブロックを積み上げて薪を炊いて温かな食べ物を提供しました。水も近所の風呂屋の井戸水を分けていただいてしのいでいました。ライフラインが回復したのは3月頃。冷たい弁当に飽いていた被災者は教会が提供する温かなスープやカレーを求め、昼食事には長蛇の列が春先まで続いていました。救援物資の中でも乳幼児用品、衣料品、医薬品は人気があり、入荷するとすぐになくなりました。どれだけのクリスチャンボランティアが駆け付けてくれたことでしょうか。
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20年経った現在、教会は震災5年後に1キロ北に4倍の敷地と会堂が与えられ、力強く前進しております。震災メモリアル集会も毎年、この時期に会を重ねて20回目を終えました。このスタイルでの震災関連行事は最終回といたしました。森祐理さんは毎回連続で出演してくださり、多くの方々に慰めを与え応援してくださいました。ご自分の実弟、渉さんも震災で犠牲となっています。
自然災害列島日本では、被災を免れることはできません。いつ、どこで、この瞬間また地震が起こるかも知れません。防災を意識して生きるしかありません。私たちの心構えとしては、信仰者の立場から言えばヨブのように「主は与え、主は取られる。主の御名は ほむべきかな」(1・21)です。しかしヨブは、最後に2倍の祝福を得ました。ですから「主は与え、主は取られる、主は再び豊かに与える。主の御名はほむべきかな」なのです。
人間至るところ青山ありですから、一喜一憂せず、絶えずキリストの御顔を仰いで、謙虚な思いで祈りをささげ、希望を持って、肯定的に生きて行く。この生き方こそ「心の防災」かも知れません。