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トガニとはハングルで「坩堝(るつぼ)」の意味。高熱で物質の溶融・合成を行うための湯のみ状の耐熱容器のこと。聴覚障害児童を保護する養護学校で校長、行政室長らに性的暴力まで受けても助けを求めることが出来なかった灼熱地獄のような苦しみ。2000年から5年間、韓国のある施設で実際に起きた事件を基に書かれたコン・ジヨンの小説を映画化している。複雑な事件を分かりやすくするため被害者を3人の子どもたちに集約化し、美術教師のカン・イノ(コン・ユ)と人権センター幹事のソ・ユジン(チョン・ユミ)を登場させている。小説そして映画であっても、大人たちの助けがなければ苦しみを訴えることのできない子どもたちの立場と、暴力の事実認定があっても軽微な量刑に止まった加害者らに対する不公平感は、世論を巻き起こし事件の再調査、再逮捕へと進展させた作品。

実際に事件が起きた都市と学校名は、霧津市(ムジン市)という架空の都市に置き換えられているいるが、事件のあらましや裁判の状況などは実際の展開が描かれているという。霧が立ち込める線路を幼い子どもが生気なくとぼとぼ歩いていく最初のシーンに、何か良くないことが起こりそうな予感と切なさが胸をよぎる。

画家を目指していたが、妻を亡くし幼い娘を母親に預けて霧津市の聴覚障害児学校に就職したカン・イノ。市に着いてほどなく止めておいた車に人権センター幹事のソ・ユジンが追突した。車を下りてきたユジンは、開口一番「なぜ、バックしてきた」とイノに食って掛かる。とんだ出会いも物語ならではか。
学校に着くと、イノは子どもたちの態度と雰囲気に不思議な感覚を抱く。校長と行政室長は双子の兄弟で父の代からキリスト教会の長老を務める町の名士で評判もいい。だが、就任のあいさつを終えると、寄付金という名のわいろを要求されたイノ。
職員室では、男子生徒のミンス(ペク・スンファン)が男性教師に殴り飛ばされている。理由は「礼儀がなってない」という。少し知的障がいのあるユリ(チョン・インソ)は、屈託のない笑顔でイノにもなついてくる。だが、ユリが連れて行った場所は洗濯室のドア。イノが入ってみると女寮長がヨンドゥ(キム・ヒョンス)の顔を回っている洗濯機の水の中に押し付けている。抗議するイノに向かって「学校の時間は終わっており、これは躾なのだ」とうそぶく。

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その場に倒れたヨンドゥを病院に連れて行き、人権センターのユジンに連絡するイノ。事情を聴いたユジンが病室から出てくると、イノにもにわかには信じがたい校長の性暴力を聞かされる…。

事件の背景になっている聴覚障害児学校がキリスト教主義の施設であり、教会の長老で町の名士でもある校長と行政室長らが逮捕されると、教会の人たちが警察や裁判所の前で輪になって祈りイノやユジンたちをサタン呼ばわりして抗議する。正直、見ていて愉快な場面ではない。だが、真摯に向き合わざるを得ない。残念なことだが、牧師による性的暴力やキリスト教系の施設での事件が日本でも起こった。

だが、原作者が実際に事件が起きた都市名などを架空の霧津市とし、被害者や事件を告発した人たちへの配慮を持って物語に再構成していることを思えば、キリスト教への批判のためという見方は的を外れるものだろう。絶対的な権力を持つ立場と決定的に弱い立場が共存する状況では、この事件のような悲劇が起こらないよう周囲の関心が不可欠なのだから。それは一般の施設でも宗教関係の施設でも変わらない。イノもユジンもいわゆるヒーローとして描かれてはいない。ただ、坩堝に押し込められている子どもたちがいるのを見た。そして彼らは、この世に命を得た大切な存在であることを認めて、関心を寄せた人たち。その、関心を持つ存在が傍に居ることの大切から目をそらさないでと語っているような、3人の子どもたちの演技が心に残る。

「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから。私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。」(旧約聖書:伝道者の書10:4-5)

監督:ファン・ドンヒョク 2011年/韓国/125分/原題:Do-ga-ni 配給:CJ Entertainment Japan 8月4日(土)よりシネマライズ、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

公式サイト:http://dogani.jp