イースター・メッセージ いのちよりも大切なもの 日本同盟基督教団東北宣教プロジェクト現地リーダー 齋藤満

 人はみな草のよう。その栄はみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。 イザヤ書40章6〜8節

被災地で生きること、想うこと

私は今、岩手県沿岸の津波被災地で働いています。未曾有の災害を経験した人々の傷みと苦しみを知るたびに、自分が彼らに何を語れるのだろうかと自問しています。
心の平安? 次の世への希望? 戦争、明治以来3度の津波、どの時代もたくましく生き残ってきた大先輩たちを前に、薄っぺらな私が語れることなど一つもありません。
しかし聖書は違います。

人はみな草のよう。その栄はみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。 イザヤ書40章6〜8節

心が折れそうになる時、この永遠の神のことばを聞いていただくために、今私はここに置かれているのだと奮い立たされます。

いのちよりも大切なもの

「いのちよりも大切なものはない」。家族を亡くした方の重い告白です。人は大切な人を失った時、初めていのちの大切さに気がつきます。被災地では今、誰もが悲しみと引き換えに「いのちよりも大切なものはない」ことを知っています。いのちが大切であることは言うまでもなく真理でしょう。
しかし、もしそれがこの世のいのちだけを指しているなら、その真理は不完全ではないでしょうか。
聖書は言います。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。 マタイの福音書16章25、26節

ここで聖書がいういのちとは、永遠のいのちに他なりません。ただこの世のいのちを愛し、首尾よく生き延び、全世界を手に入れても、永遠のいのちを逃すならそれは虚しいと聖書は言っているのです。

「すでに」と「未だ」の間にあ る復活と永遠のいのち

主イエス・キリストの復活を祝うイースター。皆様はいつもなにを覚え祝われているでしょうか。
パウロは言います。もし主の復活がなかったなら私たちの宣教も信仰も空しいと(コリント人への手紙第一15章14節)。 主の死と復活は神の救いを完成させた点で、計り知れない恵みをこの世界にもたらしました。
しかしそれだけではありません。パウロは複数の箇所で繰り返しこのように言っているのです。

バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。 コロサイ人への手紙2章12節他

終わりの日の復活は「未だ」起きていません。しかし、パウロは主の復活は私たちの内に「すでに」始まっていると言っているのです。

…それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。 ローマ人への手紙6章4節

驚くべきことばではないでしょうか。主の復活は遠い過去の出来事でも、死後のみに関連する出来事でもなく、今私たちの上に働く神の力だとパウロは言っているのです。そしてそれは私たちが新しいいのち、すなわち永遠のいのちに歩むためだと。主はそのいのちについて、こう説明しました。永遠いのちとは、神と御子イエス・キリストを知ることだと(ヨハネの福音書17章3節)。つまり、それはこの世界だけでなく次の世界にも続く、神と御子イエスとの関係に入れられることなのだと。

いのちよりも大切な永遠のいのち

「いのちよりも大切なものはない。」その通りです。しかし、聖書はこの永遠のいのちこそ最も大切なものだと私たちに語っています。すなわち神と御子との永遠の愛の関係の内に入れられていること。そこに私たちの本当の希望と平安はあります。この永遠のいのちの福音を伝え続けることこそ、教会の使命であると信じています。