2019年04月21日号

 「がん哲学外来」。病院の「外来」であるから、そこにいる医師を患者が訪れ、診察を受ける。しかし、部屋に医療器具はなく、がんの診断や治療を行うこともない。あるのは言葉による対話。医学的な疑問、告知による精神的衝撃、将来への不安、医師への不信感など、通常の医療ではカバーしきれないものを抱えた患者がその外来を訪れる。順天堂大学医学部に病理医として勤務していた樋野興夫さんは、2008年に「がん哲学外来」を開設。以来、がん患者やその家族3千人以上と向き合い、対話を通して“言葉の処方箋”を出してきた。【髙橋昌彦

「なぜ」でなく「いかに」生きるか 使命感があれば寿命は延びる

 樋野さんは「暇げな風貌」をしている。「私は暇ですから、あなたのために時間をとりますよ」というような雰囲気が相手に伝わる顔つき。これが重要なのだと言う。廊下で患者に話しかけられても、歩きながら話すことはしない。立ち止まって、目と目を合わせて話を聴く。そしてボソボソと話す。講演会では、マイクを使っても聞き取りづらい。でも、その辺の事情を、4月に刊行された著書『種を蒔く人になりなさい』(いのちのことば社フォレストブックス)では次のように書いている。「対話するとき、私はその方に最もふさわしい言葉を探し求めますので、話し方は少したどたどしいものになってしまいます。立て板に水のような話し方は、どうしてもできません。パソコンもカルテもなく、薬の処方もせず、『言葉』だけが頼りですから、必死にならざるを得ないのです」

 学生の頃から、新渡戸稲造、内村鑑三ら明治期のクリスチャンに影響を受け、聖書も愛読した。自分が「処方する」言葉は、それら先人が残したものだと言う。「がん哲学外来は、患者の個性をひきだすためにある。他人と比較するのでなく、自分はいるだけで価値ある存在なのだと気付くと、患者は自分で何かをやろうとし始める。問うべきことは、なぜ(Why)生きるのかではなく、いかに(How)生きるかでしょう。使命感があれば寿命は延びますよ。がんという問題は“解決”はしないけど、そうやって自分にとって重要なものを見つけることで、“解消”はできるから」

 島根県出雲市の漁村で生まれた。村に診療所はなく、病気になると母に負ぶわれて隣村に行かねばならなかった。「大人になったら医者に」という思いが芽生えた。大学卒業後がん研究の道に進んだ樋野さんは、研究に関わって中皮腫の患者と接し、治療以外にも何かできることはないかと考える中で、「患者さんの話を聞く場」を作ろうと思った。それががん哲学外来を生む。自分が都会で生まれていたら、医者にはならなかったかもしれない。いろいろなことが「もしかすると、この時のため」にあり、今につながっている。「自分でやったという実感はないね。後から押されている感じ。使命は与えられるものだから」

人の話から学ぶのはより賢明 それは人に謙虚さを学ばせる

 「がん哲学」とは、南原繁の「政治哲学」とがん研究の先駆者である吉田富三の「がん学」をドッキングさせたもの。生きることの根源的な意味を考えようとする患者と、がん細胞の発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする病理学者との出会いが「がん哲学外来」を生んだのだと言う。「がんは自分の正常な細胞が変化したもの、いわば“不良”です。周りが見守ってやらなければ」。子どもの頃、砂浜で一人で石投げをして遊んでいると、いつも誰かが自分の少し離れた所から見ていてくれた、そんな目を感じながら育ったことを思い出す。「今は予防医療が強調されますが、人間の体が37度で保温される限り、必ずDNAに傷が付く。生きるということは、がん化するということ。予防よりもがんになったときにどう対応するか、どう付き合うか。その教育が日本には必要だね」

 がん哲学外来を訪れた患者やその家族が、より幅広く交流しようと「メディカル・カフェ」が始まり、現在では全国150か所以上で開催されている。「体験を通して学ぶのは賢明だけど、人の話から学ぶのはもっと賢明。それは人に謙虚さを学ばせる。自分の体験談が人を傷つけてしまうこともあるからね。言葉をかける必要もない。むしろ、自分とは全く違う人間と1時間、お茶を飲みながら言葉を交わすこともなくそばにいることが出来るか。がんかどうかの問題ではない。『人間学』だよ」

 確かに、このような「外来」や「処方箋」を必要としているのは、がん患者に限らないのだろう。それぞれに抱えるものを持ち寄った人たちが、互いに言葉を「処方」する姿を描いたドキュメンタリー映画「がんと生きる 言葉の処方箋」が5月から公開される。

映画「がんと生きる 言葉の処方箋」の一場面(

HP https://kotobanosyohousen.wixsite.com/website/home

種を蒔く人になりなさい』(いのちのことば社フォレストブックス、定価1,300円+税)