第6回「東日本大震災国際神学シンポ」でアレン氏 “時”にふさわしく神は語る

2011年の震災の翌年から続けられてきた、「東日本大震災国際神学シンポジウム」(主催=OCC・災害救援キリスト者連絡会、東京基督教大学、青山学院宗教センター、キリスト者学生会、学生キリスト友愛会、共催=フラー神学大学院)の第6回が、2月3日、東京都内で開催された。今回のテーマは「苦難の中でシャロームを生きる」。フラー神学大学院旧約聖書主任教授のレスリー・アレン氏が「苦難にどう向き合うか:旧約聖書から」と題して講演。人生には「順境」「逆境」「回復」三つの季節があるとして、哀歌、詩篇、伝道者の書、ヨブ記を引用して語った。それを受けての応答、分かち合い、パネルディスカッションが行われた。アレン氏の講演を採録する。(2面に関連記事)

詩篇は、信仰者の日常生活と霊的生活に関する三つの異なる状況を前提に書かれている。「順境」の時には賛美にあふれ、「逆境」の時には助けを求め、「回復」の時には感謝を捧げる。逆境とそこからの回復に関連した詩篇は、全体の半分を占め、旧約の時代から、人生とは困難なものであったことがわかる。それぞれの時に適した神学があり、そこで描かれる神概念も大きく変化する。聖書を読む時、その御言葉がどの時について語っているかを知り、自らの時に適合させ、相手が置かれている時に合わせて語るとき、私たちは聖書からふさわしいメッセージを汲み取ることが出来る。
詩篇における逆境の祈りには、個人的な危機であれ共同体的な危機であれ、三つの異なった方法での苦難に対する応答が見られる。
第一に、大半の嘆きの祈りにおいて、神が危機的状況そのものに関わっているとは考えていない(7篇など)。第三者である神に、積極的に関わって助けるよう要請している。自らもその苦難の原因でないとする場合は、その潔白を訴えることで神に介入するよう迫る。
第二に、少数ではあるが、その苦難が人間が犯した罪のゆえにもたらされたと理解するものがある。神の道徳的な摂理に基づいた苦難、との理解である(51篇など)。詩人は自分の罪を告白することで、神が態度を変えることを望んでいる。
第三に、不平の詩がある。神がこの苦難を引き起こし、許容していると訴える(44篇など)。不満と憤りを表し、自分自身の思いを神にぶつけることが許されており、それが神への説得の手段となっている。不平を表すことを可能にするのは、神とイスラエルとの間の契約関係である。結んだ契約で期待されているように行動するよう、神に訴える。これらの詩には多くの場合、「なぜ」と「いつまで」という二つの問いが含まれる。しかし、それでも詩人たちは基本的に神への信仰の枠組みを逸脱することはない。近代史に見られる反ユダヤ主義の歴史の中でも、ユダヤ教はこの伝統を保ち続けてきたと言える。一方キリスト教会は、不平の祈りの伝統を受け継がなかった。だが新約聖書には、いくつかの例を見ることができる(マタイ4・38など)。
これら三つの祈りは、いずれも苦しんでいる人を前進させようとするものだが、それを自分に適用する前に、まず私たち自身の状況を、正直に注意深く検討する必要がある。旧約聖書に見られる危機対応を検討していきたい。
哀歌は、BC6世紀のエルサレム、ユダ崩壊後の逆境の時にあったユダヤ人たちのために書かれている。その苦難をもたらした自らの罪を告白するよう促した上で、失われてしまったものを深く悲しむことの必要を強調する。1、2、4章の冒頭の「ああ、」は悲鳴であり、人間中心の深い悲しみである。それを十分悲しんだ上で、5章では共同体の嘆きの祈りが記される。「なぜ」と不平を訴え、神が回復のために行動する余地を残し、共同体には忍耐深く待つように提唱している。
感謝の歌である詩篇73篇は、苦難の時を念頭においている。詩人は不条理に打ちのめされるが、神の聖所に入ることで解決の糸口を見つける。状況は好転しないものの、共同体の礼拝を通して、問題をイスラエルの伝統的信仰に立って見直させ、「弱い時にこそ、強い」という、内なる力を得ていく。哀歌同様、そこでは神の介入を待ち望んでいる。
伝道者の書は、悪がはびこる社会を「空の空」と繰り返すが、しかし神の摂理の現われを固く信じている。神学的な教訓とともに実践的な教訓を教える。契約に基づいた神学より、創造主なる神へ神学的に依存する。神が与える飲食、勤労を喜び、友、また妻に感謝すること。つまり、被造物がもたらす慰めに頼ることを提唱している。
ヨブ記の示す苦難には、先に見た三つの応答すべてが見られる。苦難に直接の責任を負わない神、ヨブの罪を指摘する友人、神の不正を訴えるヨブ。しかし、最後の神の語りかけはそのいずれでもなく、ヨブに別の枠組みで物事を捉え直すように促す。ヨブが導かれる悔い改めは、罪の生活からではなく、神についての間違った見方からの立ち返りである。その時神との交わりが回復し、もう一度回復の時を楽しむことができる。
聖書は、神と苦難との関わりについてそれぞれの文脈において語り、その応えには一定の幅がある。そして、苦難を克服する方法についても様々に提示する。ヨブ記は、他の嘆きの歌と同様、神の世界が苦難を引き起こす機会に満ちていることを認めるとともに、神は苦難の原因としては関与しておらず、むしろ信仰者の味方であり、助けをお与えになると理解しているのである。