立教大学諸聖徒礼拝堂100年の歴史 時をへて受け継がれるもの 建築意匠の視点で加藤教授が講演

写真=上は現在の礼拝堂内部、下は建設直後の礼拝堂内部(立教大学卒業アルバム〔商科・文科〕1920年3月、立教大学図書館所蔵))

 立教大学池袋キャンパス(東京・豊島区)の赤レンガ校舎群の一角をしめる諸聖徒礼拝堂が1920年の献堂から100年を迎えた(2月2日号で一部既報)。日本近代を代表する歴史建造物だが、現在も大学のチャペル活動の場として、日曜礼拝や平日の早朝礼拝を含む教会活動の場として、毎日活用されている。

 この礼拝堂は、建設当初の雰囲気を保ちつつも、歴史の荒波の中でその姿を変貌させてきた。建築意匠の観点から、同大学文学部キリスト教学科教授で美術史が専門の加藤磨珠枝氏が1月21日に記念講演をした。

   §    §

 同礼拝堂設計を担当したマーフィ・アンド・ダナ設計事務所(米国)による外観構想スケッチを見ると、現在のチャペルとほぼ同様に見える。だが内観スケッチでは、会衆席は対面形式だった。現在のように祭壇に向かって一方向に並ぶのとは違う。対面型は英国オックスフォード大学などで現在も採用されているカレッジ・チャペルの形式。立教大学でこれを採用しなかったのは、同礼拝堂が大学礼拝堂としてだけではなく、一般の教会としても使用されるため、礼拝堂の幅広い用途に配慮したためとみられる。

 内部の意匠も変わった。かつては祭壇後方壁面に大きな窓が開かれ、会衆席の間に内陣仕切りがあった。実は同礼拝堂は、建設してわずか3年後の1923年、関東大震災で大きな被害を受けた。再建の際、現在のような丸窓になった。第二次世界大戦中には「修養堂」と名付けられ閉鎖され、内陣仕切りや椅子類は、防空壕の木材として使用され失われてしまった。終戦直後の写真では、空洞となった礼拝堂の様子がうかがえる。

そもそも同礼拝堂の設計案の中には、仏教寺院のような和風建築も提案されていた。これは当時の欧米の宣教組織で、宣教地の文化に合わせた宣教が試みられたという背景がある。実際聖公会・奈良基督教会(1930年)は木造の寺院風の作りだ。だが大学側が選んだのは、当時欧米で主流だったゴシックリヴァイヴァル様式。「学びと宣教の場として、立教大学は伝統的カレッジの建築様式を求めた」と加藤氏は言う。

 そもそもゴシック様式は12〜16世紀に都市部で広がった芸術様式。尖塔や細かな装飾をそなえた大聖堂が特徴だ。ルネサンスからバロック期にむかい、この中世的な様式が否定されることもあったが、近代以降、英国国教会における教会の伝統継承を重視する流れや、19世紀のオックスフォード運動とも共鳴して再評価。米国では急速な近代化と大規模化へのアンチテーゼとして、アイビーリーグの名門校舎で受容された。

 ワシ型の聖書台にもエピソードがある。同様の聖書台は、献堂当初からあったが戦時中に失われた。現在のものは、1953年のエリザベス女王戴冠式に出席した小川徳治立教大学教授がマンチェスター大聖堂から提供され持ち帰ったものだ。小川氏は、戦時中に、戦争捕虜に配慮し、捕虜だった英国人主教とも親交をもっていた。様々な聖書台がある中で、あえて現在のものを選んだのは「立教のチャペルに昔の荘厳さを戻すのにより良いと信じた」からと述べた。またこの聖書台の装飾は、かつての内陣仕切りの装飾と同じだった。

 加藤氏は「諸聖徒礼拝堂の歴史の中で、失われてしまったものは多くある。しかし人々の心に受け継がれているものが確かにある。内陣の仕切りは、会衆と聖職者を分けたハイチャーチ時代の産物。現代では、むしろ内陣の仕切りを取り払ったことで会衆の一体感がある。聖公会が大事にする伝統と革新がここに体現されている」と評価した。【高橋良知