戦後80年となる。世代交代が進み、戦中、揺さぶられた教会の歴史を考える機会が減っているかもしれない。本連載では、日本キリスト教史を専門とする山口氏が戦中の教会を考える上での重要テーマを解説し、次世代のクリスチャンが応答する。連載第四回目(毎月1回掲載します)

前回
神と天皇にどっちつかずに仕えた教会 戦後80年特別連載【教会の土台を〝共に〟考える】③

 ④日本基督教団 ~戦争遂行のための教会合同~

山口陽一 東京基督教大学特任教授

1941年6月、日本基督教団の創立総会が富士見町教会で開催された。日本におけるプロテスタントの33教派の信徒20万人が一つとなった。

これが教会の信仰による合同であったなら画期的なことである。しかし、これは戦争に国民を総動員するための国策に沿ったもので、39年4月の宗教団体法に基づく合同であった。日本基督教連盟は37年7月に「時局に関する宣言」で国策協力を表明しており、40年10月には青山学院に2万人を集めた皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会において教会合同を宣言した。

日本基督教団は旧教派の伝統による部制を残して設立された。各部は、第1部「日本基督教会」、第2部「日本メソヂスト他」、第3部「日本組合基督教会他」、第4部「日本バプテスト教会」、第5部「日本福音ルーテル教会」、第6部「日本聖教会」(ホーリネス)、第7部「日本伝道基督教団」(日本イエス、基督伝道隊ほか)、第8部「日本聖化基督教団」、第9部「きよめ教会」(ホーリネス)、第10部「日本独立基督教会同盟会」(神の教会、アッセンブリーズ、活水ほか)、第11部「救世団」である。

教団指導者は、日本基督教団の成立を明治初期以来の念願達成とし、教会を守るためと考えた。キリスト教を管轄した文部省にも横暴な軍部から宗教団体を守るという意識があった。しかし、守ろうとして失ったものこそが重大だった。日本基督教団は6月の創立総会ではなく、文部省の認可を受けた半年後に成立する。キリストの教会が国家の認可によらなければ成立されなかったのである。また創立時に信仰告白を定めることができず、文部省が求めた「教義の大要」で設立された。つまるところ、国策に協力して戦争を遂行するための合同であった。

 

「神の栄光を現わす」が「皇運を扶翼する」となったのは致命的

創立総会では国民儀礼(君が代斉唱、宮城遥拝、皇軍兵士のための黙祷)が行われ、「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」と宣誓され、「教団規則」の第七条「生活綱領」では「皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其分ヲ尽シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ」とされた。プロテスタント教会として「聖書に従って」と言うべきところが「皇国の道に従って」となり、「神の栄光を現わす」が「皇運を扶翼する」となってしまったことは致命的であった。

勅任官待遇の統理の富田満牧師は、翌年1月11日に伊勢神宮に参拝し「我が国における新教団の発足を報告し、その今後における発展を希願せられた」と『教団時報』は報じている。皇国の道に従って信仰に徹し、主を畏れつつ伊勢神宮に参拝して新しい教団の発展を「希願」した。これは富田牧師個人の問題ではなく日本基督教団の問題である、、、、、

 

守るべきものを見失わない教会へ

応答 金やすみ (日本同盟基督教団塩尻聖書教会担任牧師)

「神のみを神とする信仰」、この信仰の核心こそが、戦時下の日本の教会が失ったものであったと長老教会宣教師ジョン・ヤングは語った。日本のプロテスタント教会が一つになったと言えば聞こえは良いが、その中心にいたのは神ではなく天皇であったことを知る時、私たちはそれを「妥協の産物だった」と語り、「同じ過ちは繰り返さない」と腹の底で考える。

一方で、表向きは宣教や教会のためと言いながら、世との衝突を避け、教会の命を失った戦時下の教会の姿は、今を生きる私たちに問い掛ける。「それでは君たちはどう生きるのか」と。

地方で牧会をしながら、教会が地域から孤立し、疎まれていると感じる時、自分たちが異質な存在ではなく、益となる存在であることを主張したいと願った。しかし、この世で生きる限り、神への忠誠とこの世の常識とが衝突し得ることは歴史の教訓であり、実際に経験してきた。衝突を恐れず、違和感を無視せず、神のみを神とすることを諦めないことから宣教は始まる。 世と調子を合わせることで、一見教会が成長しているように見えたとしても、「神のみ」への忠誠を失った教会の命は、すでに失われている。時代がどうなろうと、過去の「負の遺産」と向き合い、今度は未来に「誇るべき信仰の遺産」を残す歩みをしていきたい。

2025年04月27日号 03面掲載記事)