[CSD]2012年10月28日号《ヘッドライン》

[CSD]2012年10月28日号《ヘッドライン》

 = 1面 ニュース=
◎震災体験の「語りべ」に——3・11から1年7か月 手記、証し集、講演集続々
★今年も被災者にクリスマスソックス

 = 2 面 ニュース=
◎台湾大地震に学ぶ「支援と宣教」——福音運動から戦略的に一致協力
★震災1年半ようやく解体「被災者どこまでできるか」——救援拠点の内郷キリスト教会
★システィーナ礼拝堂天井画完成から500年——大塚国際美術館が記念イベント
★<落ち穂>土佐藩士のスピリット

 = 3 面 =
★<いのちへのまなざし>[32]双方向性 記・柏木哲夫
★日本青年伝道会議レポート[4]:長期支援の青年たち被災地で信仰を成長
★<オピニオン>「東北被災地に学ぶ地域理解」 記・鈴木 真
★<情報クリップ>催し情報・放送伝道ハイライトほか

 = 4・5 面 全面広告 =
★「どんどん誘って、伝道しましょう!」——星野富弘 花の詩画展 in お茶の水


 = 6 面 神学/歴史 =
◎同情する苦しみ、また不正義との対決としての十字架?——東日本大震災 国際神学シンポジウムより
★「私の生涯に起こってくる神の物語」——第27回関東聖化大会

 = 7 面 伝道・牧会を考える =
★教会ルポ<ここも神の御国なれば>[28]日本伝道隊・ハレルヤチャーチ高松?——ァミリー伝道に教会は導かれ
★<神の宣教>神のことばを神の世界へ[5]—— クリストファー・ライト講演抄録

 = 8 面 レビュー =
★DVD:「聖書を読んだサムライたち?」
★グッズ:三浦綾子言葉の花束12選 文学カレンダー2013/言葉のポストカード
★Book:『閉塞感からの脱却 日本宣教神学』山口勝政著 (YOBEL,Inc. 1890円税込)
★Book:『日本の「朝鮮」支配とキリスト教会』信州夏期宣教講座(いのちのことば社 1890円税込)
★Book:『ライフブック』『ディサイプルブック』 飯田克弥とチームJ-HOUSE著(各1200円税込)
★Book:『ユダヤ教の基本』ミルトン・スタインバーグ著(ミルトス 2625円税込)
★Book:『信仰生活の手引き 伝道』深井智朗著 (日本キリスト教団出版局 1365円税込)
★Movie:「カミハテ商店」http://kitashira.com/ (11月10日よりユーロスペース、京都シネマほか全国順次公開)

◎震災体験の「語りべ」に−−3・11から1年7か月 手記、証し集、講演集続々=1210280101

 東日本大震災から1年7か月が過ぎた。被災地はまだまだ復興にはほど遠い状況だが、あの時の出来事を思い巡らせ、振り返る動きも増えてきた。あの時の体験を忘れずに記録に残しておこうと、津波被害や原発事故による放射能汚染などで被災したクリスチャン、被災者支援に携わった牧師、信徒、被災地を訪れたジャーナリストによる手記、証し集、講演集の出版が後を絶たない。

 (有)愛隣オフセット印刷社(宮城県気仙沼市)の阿部克衛さん(保守バプ・気仙沼第一聖書バプテスト教会員)とその家族は、それぞれの震災体験を『箱船の中の家族たち』(700円税込)という小冊子にまとめた。
 阿部一家は大津波で印刷工場兼住居が1・6メートル浸水。岩井崎の海岸近くにあった阿部夫妻の自宅兼ゲストハウスも津波に流された。克衛さんはこう記す。「40年間、私たちと苦楽を共にして来た印刷機や設備、住居や家財道具など一瞬にして壊滅的な被害を受け全財産を失いました。家内と共に悔しさと将来に対する不安で涙するのみでした。(中略)しかし時を移さず、この悔し涙を喜びに替えて下さる神様のすばらしい愛の業を、次から次へと目の当たりにすることになりました」
 国内外のクリスチャンボランティアの支援活動により浸水した自宅兼工場がみるみるきれいになり、3か月後には事業を再開できたこと、5月連休中、支援活動にかけつけた三女の夫が信仰決心したことなど、震災後の「神様の御業」が生き生きと記されている。次女、柏村淳子さんの娘の結子さん(当時小学3年生)は「この津波のことはずっと忘れないと思う。世界でいろんな災害が起きたりした時、その人達のためにお祈りをしていきたい」と記している。
 3・11いわて教会ネットワークコーディネーターの近藤愛哉さん(保守バプ・盛岡聖書バプテスト教会牧師)は、『被災地からの手紙From岩手』(いのちのことば社、840円税込)を著した。近藤さんは「『二〇一一年三月十一日以後』を経験し続けてきた者たちはみな、自らの記憶と経験の『語りべ』としての資格をもつのではないか」と記す。これまで沿岸地域の人々との間に積極的な関わりを持とうとしてこなかったが、この震災によって、「これまで人が心と意識の中に作り出してきた様々な『距離』の壁が崩れ、人と人の間に大きな変化が生み出され続けている」と記す。
 震災1周年を機に来日し被災地を視察した米クリスチャンジャーナリスト、フィリップ・ヤンシー氏の来日講演集『痛むとき、神はどこにいるのか』(いのちのことば社、945円税込)が出版された。ヤンシー氏は東北で苦しみを通して神さまが慰めを与えてくださったという話を何度も耳にしたとし、「神は、苦しみの中にいるひとりひとりに触れてくださり、またその共同体の中で慰めを与えてくださいます」という。
 震災後、「放射能から子どものいのちを守る会・会津」「会津放射能情報センター」を設立した片岡輝美さん(日基教団・若松栄町教会牧師夫人)は、TOMOセレクトシリーズ3・11後を生きる 『今、いのちを守る』(日本キリスト教団出版局、840円税込)を著した。その中で、被曝の恐怖は福島を孤立と分断に直面させた、とその現状を訴える。片岡さんは、「このような事態にあって、主は何を私たちに望んでおられるのか。それは『生きよ!最後の時まで生き抜け!』ということであると思う」と、不安と怖れの中にある福島の人たちに寄り添う決意を記す。

◎台湾大地震に学ぶ「支援と宣教」−−福音運動から戦略的に一致協力=1210280201

 10月1日、「南三陸町を支えるキリスト者ネットワーク」主催によるセミナーが仙台市青葉区の仙台バプテスト神学校で開かれた。台湾のキリスト教界で指導的役割を担っている夏忠堅牧師(中華基督教救助協会秘書長)が、台湾台中大地震の時に台湾のキリスト教会が教派の壁を超えて一つの支援組織のもとで被災地支援をした経験を通して、「地域教会による支援と宣教」について講演。教会が一致と協力によって活動をした結果、それが台湾の宣教事情にどのような影響を与えたかについて学んだ。
 1999年9月21日1時45分(現地時間)、台湾中部南投県集集付近を震源として発生したマグニチュード7・7の大きな地震が台湾を襲った。現地では集集地震と呼ばれている。この地震により、死者2千188人、全壊建物9千878棟(同年10月1日現在)などの大きな被害があった。
 その時、台湾のキリスト教会は、一つの支援組織のもとに救援活動を戦略的に活動した。震災支援での一致した救援活動の下地は、1990年代に各教派が協力して「2000年福音運動」という宣教協力の運動が起こり、その一環として台風などの災害時にボランティアをまとめる専任スタッフ一人の小さな委員会を設けたことにあった。それが「中華基督教救助協会」だった。
 夏氏はその「2000年福音運動」の全体をまとめる責任者を務めた。当初キリスト教会は、災害というのは日本でもおなじみの台風による洪水や土砂崩れなどで、地震などは想定していなかった。しかし、救助協会ができてすぐ台湾大地震が起きたので、救助協会はただちに教会のボランティアの窓口になり、被災地に送りだした。
 その時、支援する教会といくつかの協定を結んだ。第一は、支援グループはすべて「救助協会」の名を使う。個々のキリスト教会名は出さない。企業や行政、一般社会にも資金的な支援や物資の提供を「救助協会」の名で募っていき、それを支援活動に使う。第二は、福音を明確に被災者たちに語るのは3年ぐらいの段階を設けて、被災者たちの家庭や地域環境、東洋的文化にも最大限配慮をして、早急な信仰決心を求めない。被災地ですぐ教会を建てようとするのではなく、3年かけて、支援で培った人間関係に基づいて、支援教会に、支援地域に教会を開設することを要請するというものであった。
 震災前、台湾のキリスト教人口は全国で3%であったが、震災後の現在は5%で、中心都市の台北は人口の10%がクリスチャンになっているということである。
 講演を通して考えさせられたことは、私たちは初代教会の姿に学び、小さな教会であっても一致することによって地域にキリスト教が浸透することが大切であるということ。そのためには、西欧的な宣教論だけではなく東洋的宣教論に基づいて、東洋的家族観や地域文化を対立的にとらえるだけでなく、それを理解しながら宣教するという視点であった。 (レポート・鈴木真=イザヤ58ネット代表)

◎同情する苦しみ、また不正義との対決としての十字架?−−東日本大震災 国際神学シンポジウムより=12

 今年3月に都内で開催された「東日本大震災国際神学シンポジウム」において、フラー神学校のキリスト教倫理学の専門家で、大学時代には原子物理学を修めたグレン・スタッセン教授は、「同情する苦しみ、また不正義との対決としての十字架」を主題に、福島原発事故との関わりで講演した。その一部を要約・紹介する。

 マルコは、なぜイエスが十字架にかけられたのかを語ることで、その福音書を書き始めている。イエスは、同情をもって見捨てられた人々の存在の中に入り、その人々を解放し、彼らをご自身また他の人々と共に共同体へと迎え入れたのであり、この同情的な解放行為においてこそ、イエスは神の子であり、聖霊としての神の臨在の道具なのである。イエスは、これら全ての人々を汚れた見捨てられた者として不当に扱っていた権力者・権威者たちの支配に抗って、そこに行った。このこともイエスが十字架にかかった意味なのだと、マルコが言っていると私は考える。
 私たちが神から引き離されることは、私たちの罪責感ばかりではなく、私たちの恥によっても引き起こされるのだと、私は主張したい。私たちは恥じ入って、それぞれのいちじくの葉という防御によって神から隠れる。贖いのためには、赦しだけでなく、神ご自身の苦しみをもって入って来てくださることが必要である。これこそ、神がキリストにおいてしてくださったことなのである。
 (中略)
 イエスは、権威者たちの不正義によって苦しんでいる人々への同情のゆえに、彼らの不正義と対決したのである。〔イエスの十字架〕こそが、永遠に記憶されるほどにドラマティックな仕方で、彼らの不正義と対決する唯一の非暴力的な方法であった。それによって、イエスの十字架は、数多くの十字架刑や、あるいはさほどドラマティックではない仕方で苦しむ人々に対する同情のゆえに、イエスが全ての不正義と対決してくださった出来事として記憶されるのである。
 イエスは、彼らに悔い改めるように呼びかけるために、彼らの不正義のただ中に入ってくださった。それはまた、不正義に苦しむ人々に対する私たちの同情のゆえに、私たち自身が不正義と対決するようにと呼びかけるためでもあった。
 マルコ12・6では、イエスのたとえの中で、ぶどう園の農夫たちが、権力と富への欲望のために、共謀して主人の息子を殺すという出来事が語られている。「祭司長、律法学者、長老たち」(11・27)は、「イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた」(12・12)。ここでもまた、マルコは、イエスが権威者たちの不正義、権力、支配、そして富への欲望と対決したために、権威者たちがイエスを殺そうと共謀したことを告げている。このたとえを話すことによって、イエスは権威者たちがしていることのただ中へと入り、彼らと対峙し、彼らが悔い改めるべき罪を名指しされた。イエスは、弟子たちに悔い改めるように呼びかけているのと同様に、権威者たちに対しても、その支配と欲望、偽善を悔い改めるようにと呼びかけているのである。イエスは、権力者たちをも贖うことを求めておられる|もしも彼らが悔い改めるならば、であるが。
(中略)
 イエスは弟子たちが失敗することを知っておられ、そのように彼らに告げておられた。十字架とは、神がキリストにおいて私たちのただ中に入ってくださり、私たちに対峙し、悔い改めるように呼びかけてくださり、そして、私たちの裏切りと否認とを、ご自身の対峙する愛の中に包含してくださる、ということである。弟子たちの裏切り、否認、そして脱落は、イエスによって、明白に十字架の意味の中へと取り上げられている。
 イエスは弟子たちのことをよくご存知であったと、マルコは私たちに語っている。弟子たちはしばしばイエスを誤解した。イエスは、誤解や否認、また裏切りさえも含めて、その彼らのただ中にお入りになった。イエスが失敗した弟子たちと直接、そして誠実に対峙してくださることによって、彼らは、イエスが完全な弟子たちを贖うのではなく、恥と罪責を負う人々を贖う、ということを理解するようになる。イエスは、私たちのような人々を贖ってくださるのである。イエスは、弟
子たちの失敗を受け入れ、それをご自身と共に十字架へと持って行ってくださる。
 *本稿において引用聖句は新共同訳です。