[CSD]2006年 8月6日《ヘッドライン》

[CSD]2006年 8月6日《ヘッドライン》
 = 1面 ニュース=
◎「ピースリボン」裁判:東京地裁が棄却——教育者の良心認めず
★WEAが中東のための祈りを要請——事態のエスカレートを危惧

 = 2 面 ニュース=
◎梅雨の豪雨各地で被害——教会で地域のために祈る
★国のために祈る夕べ——教育の危機・教師、生徒のため祈る
★懸念される統一協会ダミー団体の政界への浸透——代議士らの合同結婚式への祝電に抗議集会
★<落ち穂>「母校のための祈り会」の輪広がれ

 = 3 面 クリスチャンライフ=
★獄中に広がる信仰の波紋——元ヤクザの刑務所伝道
★<私の子育て失敗談>約束、守っていますか? 記・斎藤 望

 = 4 面 ビジネスパーソン=
★きょう、救いがこの家に——堀井 洋二・卓さん[上]([有]アーク・ビレッジ)
★<ザ・ゴールデンルール>[2]言葉で語られる黄金律 記・田上昌賢

 = 5 面 牧会/神学/社会=
★講演:国際聖書フォーラム2006より[4]死海文書に関する近年の学問上の諸問題<下> エマニュエル・トーブ
◎<オピニオン>「内心の自由と外部的行為は別」という欺瞞 記・根田 祥一
 = 6 面 関西だより=
★聖書正しく伝える講解説教者育成——浜寺聖書学院「申命記講解」セミナー8月開催
★闇に光を投げかける画家・有田道子さん
★ペンテコステ神学研究会第5回公開講座

 = 7 面 全面広告=
☆よこはま 星野富弘「花の詩画展」 9月21日(木)—10月9日(月)
会場:みなとみらい横浜赤レンガ倉庫1号館・2号館
http://yokohama-tomihiro.com
 = 8・9 面 地域宣教特集/中国5県=
★中国5県宣教事始め
★地域座談会:38年間の交わりが恵み——課題は信仰の継承、人材教育

 = 10 面 情報/リポート=
★リポート:礼拝者の定義セミナー 記・谷 清志
★リポート:第12回聖句書道セミナー 記・美登かんな
★<寄稿>「ホームレス伝道中止」に思う
★<寄稿>「戦争反対」を叫ぶ

 = 11 面 情報=
★<情報クリップ>催し情報・放送伝道ハイライトほか
★BOOK:『あなたを変える賛美』マイケル・ヨセフ著(生ける水の川、1,890円)
★BOOK:『子どもの可能性を伸ばす7つの秘訣』ザン・タイラー著(ホームスクーリング・ビジョン、1,680円)
★CD:「うつわ」ゆかり☆Gospel(Yoshi Blessed Music、1,500円)
★REVIEW:『アメリカ・キリスト教史』森本あんり著(新教出版社、1,785円)

 = 12 面 教会=
★本物のムシキング決定戦——広島福音自由教会可部グリーンヒルチャペル



「ピースリボン」裁判:東京地裁が棄却−−教育者の良心認めず=0608060101

 「日の丸・君が代」強制に対し、キリスト者の音楽専科教員佐藤美和子さんが処分の不当性を訴え、国立市と東京都を相手取って損害賠償を求めていた通称「ピースリボン」裁判で東京地裁(金井康夫裁判長)は7月26日、原告の訴えを棄却する判決を言い渡した。  信仰者として思想・信教の自由をかけて「君が代」伴奏を拒否し、教師や児童の意思を無視して校長が国旗掲揚を強行したことに対し強制があってはならないとのメッセージを動揺する子どもたちに送るため、リボンを着けた佐藤さんの教育者としての良心の表明は、校長・教育委員会の裁量を大幅に認める司法判断によって抑え込まれた。同裁判では処分を受けた教員の人権のみならず、教員の行為が児童の人権を守ろうとしたものであることを主張していたが、判決はどちらも無視。「日の丸・君が代」完全実施へと強権を振るう教育行政のなりふり構わぬ姿勢に、司法は歯止めをかけることを避けた。
 本件は「国旗国歌法」成立翌年の00年3月卒業式に際し、佐藤さんが当時勤めていた国立市立第2小学校で、校長が教職員との十分な議論も児童に対する事前の説明もせずに独断で「日の丸」を校舎屋上に掲揚。これに反対する複数の教員が通称「ピースリボン」を着用して式に出席した。佐藤さんはそれと類似の手作りのリボンを着け、ピアノ伴奏や児童の合唱指導に当たった。しかしそのリボン着用が「職務専念義務違反」とされ、文書訓告処分を受けた。この前後の原告の言動に関する聞き取りなどが原告の思想・良心の自由を不当に制約するものだと訴えた。
 またその後の卒業式・入学式で校長は佐藤さんに対し、国歌斉唱のピアノ伴奏を強要。佐藤さんは「キリスト者として、かつて天皇を神として賛美するために使われた曲を弾くことはできない」などと表明し断った。
 これに対し校長は、伴奏を断れば音楽の授業を担当させず学級担任をさせる旨を伝えた。また人事異動で着任した次の校長は、佐藤さんを5、6年の音楽担当からはずし、両親の介護の必要から異動が困難であると申告していたにもかかわらず市教委に異動を具申するなどの報復人事を実施した。
 この結果、都教委は杉並区への異動を発令。その際、市教委職員が杉並区教委に対し、佐藤さんが信仰に基づいて国歌斉唱のピアノ伴奏を拒否していることを伝え、信教の自由を侵害した。
 判決は原告が「不当」と訴えていたこの間の校長・教委の言動について、いずれも「社会通念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したものであると認めることができない」などとして容認した。
 判決後、支援者らにあいさつした佐藤さんは、「リボンを着けたのも伴奏を拒否したのも、私の人権の問題であるだけでなく、子どもたちの人権の問題だと主張したのに、裁判所は憲法判断はおろか子どものことに全然目がいっていない。でも、私たちの側に真実があるのだということは変わらない。判決がいかなるものであろうと、真実を曲げないで主張し続けていきたい」と述べた。

梅雨の豪雨各地で被害−−教会で地域のために祈る−−=0608060201

 7月に九州、山陰、長野県などに記録的な大雨をもたらした、日本列島上空に停滞する梅雨前線。この影響で教会にも、信徒が避難所に避難する、家が水に浸かる、礼拝に行けないなどの被害が出た。  島根県は17日から18日にかけて大雨に遭った。出雲市の日基教団・出雲めぐみ教会(齊藤善子牧師)では、太田市に住む信徒の家の裏山が崩壊し水道が使えなくなった。松江市の日基教団・松江古志原教会(葉以潔牧師)では、信徒宅1軒が床上、3軒が床下浸水、冠水した畑で作業中腰を痛めた信徒も。日基教団・松江北堀教会(大沢章夫牧師)では、教会堂も玄関先まで水に浸かり、信徒宅2軒が床下浸水し、信徒が経営する店舗1軒も浸水の被害を受けた。
 長野県岡谷市では、7月15日から20日ごろまで続いた記録的大雨の影響で土石流や鉄砲水が発生した。市内の避難所でボランティア活動をするイエス・キリスト・岡谷教会の森本正之牧師は「倉庫が水に浸かった信徒宅が1軒ある。教会のメンバーではないが、行方不明の方が1人いるので祈って欲しい」と要請。福音キリスト教会連合・岡谷めぐみ教会(武田慎治牧師)では、教会、信徒宅に被害はなかったが「朝の祈り会で被害がひどかった地域のことを覚え、祈っている」という。
 鹿児島県薩摩川内市のバプ連盟・バプテスト川内キリスト教会(川内活也牧師)では、7月22、23日の大雨の影響で23日の礼拝は出席者が半減。日基教団・川内教会(日下部克彦牧師)でも礼拝出席者が半数で「避難所からかけつけた信徒もいた」という。

<オピニオン>「内心の自由と外部的行為は別」という欺瞞 記・根田 祥一=0608060502

 楽しい夏休み。だが中には、楽しくない宿題を課されて苦闘している先生たちもいる。卒業式・入学式等での「国旗掲揚・国歌斉唱」の実施を事細かに指示する通達を都教育委員会が03年10月23日に出した東京では、それに不起立などで抵抗している教師たちが職務命令違反だとして都教委から「服務事故再発防止研修」に呼び出されている。
 この再発防止研修は、教職員がセクハラや飲酒運転、暴力行為などの「非行」を犯した場合に反省を促すためのもの。それが、自分の信条や信仰に基づいて「日の丸・君が代」の強制に抵抗している教職員に適用されている。都教委は、反省が見られなければ研修修了とは見なさず執拗に「転向」を迫る。まさに思想・良心・信教の自由を無視した思想改造の「踏み絵」と化しているのだ。
 このことに象徴される教育現場の異常さに対し、裁判で闘う教師たちがいる。その中で、キリスト者として信仰の自由をかけて子どもの人権を守ろうとしていた佐藤美和子さんの訴えを、東京地裁は切り捨てた。 その判決文から、信仰や信条について行政も司法も思い違いをしていることがうかがえる。
 それは例えば、教育委員会の担当者が原告に対して行った聞き取りが、原告の信条を推知し、これに非難・処罰を加えようとするものであったという主張に対する、次のような裁判所の判断に表れている。「(聞き取りは)原告の職務に関する外部的行為について尋ねるものであると認められ、原告の信条を推知しようとするものであると認めることはできない。…原告の主張は、…原告の外部的行動は同人の思想・信条を推知し得るとの趣旨であるとも解される。しかし、公立小学校の教諭の職務に関する行動が世界観や主義、主張、思想等と密接に関連するものであるとは一般的には認められない…」
 いったい、実際の生き方と無関係な信仰や信条などというものがあろうか。この「外部的行為」という言葉は最近、行政や司法が個人の「内心の自由」を尊重するそぶりを見せつつ実際には行動を規制する場合、あるいは規制を正当化しようとする場合によく使われる。「内心の自由」と「外部的行為」を分けて二元化することによって、思想・良心・信教の自由という人格の尊厳にとってかけがえのない概念を、単なる内面的な「心」の問題に矮小化し、現実の生き方では屈従を強いる欺瞞的な論法だ。
 戦前、キリスト教を心の中で信じることは許されていたが、現実には神社参拝や宮城遙拝などの行為を強要された。そのような「信教の自由」は、もはや「自由」の名に値しない。この精神構造から、この国の為政者も法の番人も解放されていないことが恐ろしい。
 国家に「内心」を絡め取られた人々に戦争は止められなかった。平和の願いを新たにするこの季節、心と行動と人間の自由とは何かを考えたい。