“「ことば」への不信”超えて 新連載 アートが描く「現実」① 展示「七つの詩〜あれから6年 僕らがみているフクシマ〜」から
「ことば」への不信。東京電力福島第一原発事故を経て、「原発神話」が崩れた。さらに事故後に相次いだ情報隠蔽・操作に人々の失望と不安は増大した。
事故から2年が経過した2013年。反原発の流れも変調していた。「原発推進」は政府、経済界で盛り返し、東京五輪開催の決定で、2020年「復興」への動きが加速した。保障の有無や多寡、避難する人と留まる人、放射能への見解の違い、関心と無関心、などの「分断」が指摘された。
震災後、福島県の教会と関わってきた「『声なき者の友』の輪」(FVI)代表の神田英輔さんは「『放射能』は目に見えない。それだけに、放射能がもたらす影響については、過小に評価する御用学者から、過大な恐怖をり立てる専門家まで、もはや誰の言葉を信じたら良いのかわからないくらいの『ことば』への不信を生み出した」と語った。
「事故で飛散した放射性物質は空気と土地を汚染し、多数の市町村が避難指示区域(帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域)に設定されました。格納容器を突き破って溶融した核燃料のために廃炉は次世代に先送りされ地下水を汚染し続けています。県内外に避難を余儀なくされた人の数は、最大時は16万人以上、6年経った今でさえ8万人近くに上っています」
「言葉で伝えられない」葛藤の中、注目したのが、丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」だった。 ◇ ◇
原爆投下から数日後、親戚の安否を尋ねて広島に駆けつけた画家の丸木夫妻は、その地の惨状を目撃した。米国の占領下にあった日本では、原爆の情報について検閲が働いていた。日本側の自己規制も作用して、52年4月の占領終結まで原爆被害の状況は一般市民にほとんど知らされなかったという(岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が観た!』新宿書房、2015)。その中で50年から「原爆の図」は様々な草の根の文化運動、平和運動と結びつき全国巡回し、原発の惨状を伝えた。展示は世界各地にも広がった。
「『原爆の図』は、『ことば』以上に、見る者に大きなインパクトを与え続けていた。FVIは『ことば』を超えたアートの力でフクシマをお伝えする道を選んだ」と神田氏は述べた。
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筆を取れ、目をあげよう、踏みだそう。その心が感じたものを描きだせ。それこそこの時代に生まれた自分にしか描けない未来への1枚なのだから。
14年に福島県いわき市で、展示「だからこの時代に生まれた〜フクシマを描く」(FVI主催、日本ローザンヌ委員会、バイブル&アートミニストリーズ後援)が開催された。ポスターに書かれた言葉には、参加作家の画家、林美蘭さんのアーティストとしての思いが込められていた。
林さんは、11年7月の反原発デモに参加し圧倒された。「赤に黄色にたなびくのぼりの波が空に向かい反原発を叫んでいる人の列は脈々と途切れない。何かすごいことが起きている、“何か”を描き留めておこうと鳥肌のたった手で慌ててスケッチブックを取り出した」と言う。「さまざまな一人が自分の意志を明らかにしたがっていた」と思えた。
翌年反原発の勢いは増していた。だが「同時に原発は政治の側面を強めていた。警察との小競り合いが発生していたデモは反権力の象徴になりつつあった」と振り返る。
13年参院選の中では原発が対立点となった。「対立を避けるための沈黙に覆われる前にフクシマに集い、私たちの手で“何か”をみ出そう。対立ではなく、共に事故後に生きる者として。この時代に生まれたものとして未来への一枚を描きにゆこう」という思いが募った。
多くのアーティストがいる中で「なぜ自分がるのか」とも問うた。その問いへの応答は、自分の存在が他者や自然に支えられている不思議だった。そのつながりの中で津波、原発事故は、「私たちの頭上から外されることのない杯」だった。
「沈黙を保つことでもなく、顔を背けることでもなく。この時代の杯にどう答えるのか。今いる自分で答えるのだ」。この思いの中で、筆を取ることにした。
13年秋。神田さんの呼びかけに応じた9人のアーティストたちは、福島県を訪問し、作品の構想を練った(5面に関連記事)。(つづく)【高橋良知】

