10年ほど前のこと。クリスチャン新聞記者とある出来事ついて話をしていた時、「それ、記事にしてみませんか? 締め切りは明日。徹夜しても書く価値ありますよ…」と、締め切りが明日という「非常識」なリクエストを笑顔で語る記者魂に敬服し、一晩かけて記事を書き上げた。苦難を受ける覚悟で信仰を貫いた一人のキリスト者青年のストーリーだった。何を記事にするかを見極める記者の嗅覚を感じた。
クリスチャン新聞創刊号の1面はビリー・グラハム国際大会に向けた協力体制の拡大だったと聞く。当時の福音派成長の息吹を感じる時代を記し、後に靖国法案について論じつつクリスチャン新聞は宣教的視点をもってジャーナリズムの矜持を保ち、50年の歩みを刻んできた。その歴史、記者の取り組みに心からの敬意を表したい。
近年はソーシャルネットワークサービス(SNS)の発達により、週刊のクリスチャン新聞は情報伝達・速報性という点での新鮮味は薄れてきた。SNSは情報の速報性に優れ、若い世代に届く力を持っているが、その情報の意味付けは時に主観的であり、一部の人の「声」が拡散してしまう傾向を否めない。
この時代にあってクリスチャン新聞に期待することは、拡散していく様々な情報の中から価値ある情報を峻別し、キリスト者の視座を養う記事を諸教会に届けること。現代社会に起こる出来事をどのように理解すべきかの視点を掘り下げ、読者に決断を迫るキリスト教信仰の良心的存在であることだ。
そして現代に届くキリスト教的思索を養う「論説」、キリスト者がこの世界で責任を果たし、その生き方を整えられた読者が伝道そして教会形成に仕える起点となる「論説」を復活してほしい。社会における不条理に対して、一般のジャーナリズムの安易な引用や言葉を用いず、「教会の言葉」「信仰の言葉」で語り抜いてほしい。
現実を生き抜く「教会の言葉」「信仰の言葉」こそ、社会性を持つ良質な言葉・記事となり、その言葉を通じて記者と読者に霊的な交わりが生まれ、思索の成熟という宣教の展開へとつながる。新聞のネット版、SNS、他のキリスト教メディアとの連携を通して読者とクリスチャン新聞が幅広くつながり、いのちのことば社の信仰良書や販売物を通して総合的に伝道が展開されていくだろう。
クリスチャン新聞がそのキリスト教的思索の成熟の基点となることを願っている。
