©2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl, MACT Productions SA, Metro Communicationsltd.
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19世紀から20世紀にかけて興った全体主義について論考した『全体主義の起源』を著わした20世紀の政治哲学者・政治思想家のハンナ・アーレント(1906―1975年。本作ではバルバラ・スコバが演じている)の人物像とその魅力をある事件にフォーカスを当てながら描いている。2012年の東京国際映画祭コンペッション部門に出品され無冠に終わったが、思想することの孤高さと愛すべき人間性をみごとに表現している秀作。

‘ある事件’とは、主著『全体主義の起源』よりも、彼女の名前を一躍世界的なものにした『イエルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(1963年刊。邦訳、みすず書房)にまつわる出来事。ナチスによるユダヤ人ホロコーストに指揮的役割を果たしたアドルフ・アイヒマン(1906年―1962年)の裁判を傍聴取材し分析したアーレントのレポート。1963年に「ニューヨーカー」誌に連載されてのち同年刊行されたが、アイヒマンは反ユダヤからホロコーストを指揮したのではなく、自分の行為がどのような結果をもたらすかというほどの思考さえ停止し、一官僚としてたんに指示された命令をこなしただけの凡庸さが巨悪を遂行させたという主旨は一大センセーショナルを巻き起こした。
また、ユダヤ人問題とともに欧州各地からのユダヤ人移送についても詳述し、ナチスによるホロコーストにユダヤ人自治組織の関係者が関わっていた事実にも触れた。これはアーレントが心を寄せていたシオニストはじめ激しい反感を引き起こす。

アイヒマン裁判を取材するハンナ。 ©2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl, MACT Productions SA, Metro Communicationsltd.
アイヒマン裁判を取材するハンナ。 ©2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl, MACT Productions SA, Metro Communicationsltd.

激しい反論とすさまじいバッシングのなかに置かれても、’根源悪とは何か’を思考続けたアーレントの主張は変わらない。自ら思考することをやめて社会の大勢を支配する’気分’のようなものに流されていくとき、小市民的な個人はアイヒマン同様に’悪の陳腐さ(もしくは、悪の凡庸さ)’に陥っていく。情況を理解するためには、思考する意志をもって臨まないと、自由意思を与えられている人間の尊厳は保てなくなる。

この出来事を通して描かれるアーレントの生き様は、その思想の結実を気高い香りを漂わせながら伝えてくれる。

アイヒマンは、逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの特務機関によって拉致され、イスラエルで裁判に掛けられた。こうした超法規的な行為は正当なのか。また、ニュルンベルグ裁判、極東国際軍事裁判(東京裁判)での「平和に対する罪」についての定義のあいまいさから、ソ連の国家機関によるカチンの森虐殺事件や広島・長崎への原爆投下などについてもアーレントは『イエルサレムのアイヒマン』のレポートで批判している。こうした政治的関係などが挿入されれば、映画としてのスリリングな展開は違った緊張感を醸し出したかもしれない。だが、本作はアイヒマンを捕獲する事実だけを描き、アイヒマン裁判での彼自身が証言する記録フィルムによって、アーレントが’根源悪’について思考していく真摯さを緊張感をもって演出している。

友人夫婦らと語らう冒頭シーンからアーレントのフランクな人柄を感じさせ、哲学者ハイデッガー教授との出会いと一時期の恋など人間ハンナ・アーレントの内面をさり気なく演出する。友人たちと親しく接する立ち居振る舞いとチェーンスモーカーらしく思索に没頭する厳然な姿。そのメリハリのある演出にアイヒマン裁判から導き出された’悪の凡庸さ’を講義する8分間は、観客をも彼女の講義に引き込んでいく。 【遠山清一】

監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ 2012年/ドイツ=ルクセンブルク=フランス/ドイツ語、英語/114分/映倫:G/原題:Hannah Arendt 配給:セテラ・インターナショナル 2013年10月26日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー。
公式サイト:http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
Facebook:https://www.facebook.com/arendt.cetera

2013年ドイツ映画賞作品賞銀賞・主演女優賞、バイエルン映画賞主演女優賞受賞作品。2012年第25回東京国際映画祭コンペティション部門出品作品。