映画「地の塩 山室軍平」--“世のため人のため”に生きキリストを証しした生涯
日本人初の救世軍士官(教師・伝道師)となり伝道文書「鬨(とき)の声」発刊や公娼廃止運動(廃娼運動)、社会福祉事業を推進し日本軍国司令官を務めた山室軍平(1872年[明治5]9月1日~1940年[昭和15]3月13日)の生涯を描いている。山室の母親の祈り、妻・機恵子との二人三脚での奉仕と伝道、山室と出会った人々を通して描かれる“世のため人のため”に生きた明治期の人々の気概が熱く伝わってくる。
【あらすじ】
山室軍平(森岡 龍)は、1872年に岡山県阿哲郡本郷村(現在の新見市)で貧しい農家の山室佐八(おかやまはじめ)、登毛(とも=渡辺 梓)夫婦の八人兄姉の末っ子(三男)として生まれた。信心深い登毛は、虚弱体質だった軍平の先行きを心配し「無事成長しますように。他人様に迷惑をかけず少しでも他人様の役に立つものになりますように」と好物でもある鶏の卵断ちを決意して神仏に祈願する。
登毛の祈りと育児に支えられて成長した軍平は、9歳の時、跡継ぎがいない親戚の杉本弥太郎(KONTA)に望まれて養子となり高等小学校へ進み卒業する。だが、家業の質屋を継ぐことを強要されたのを拒み、15歳の時に家出して上京し活版印刷所の職工に就く。向学心の強い軍平は、福音教会の路傍伝道に出合い教会主催の英語学校に入学。そこでキリスト教の福音に触れ1888年(明治21)に洗礼を受けた。
登毛が祈願していた「少しでも他人様の役に立つものになりますように」との生き方は、軍平の心に生き続けていた。受洗の翌年、私淑する新島襄(辰巳琢郎)を慕って京都の同志社大学に入学する。学費が足りないため本科に軍平のため、上級生の吉田清太郎(水澤紳吾)は自分の学費を軍平のために納めて応援する。吉田が岡山の高梁教会で夏季伝道するのを応援に出かけた軍平は、9年ぶりに故郷に実家を訪ねた。軍平が立派に成人し、他人のため生きる人生を歩もうとしているのを知っても登毛がずっと卵断ちを続けきたし、誓ったことなのだからこれからも卵は断つという。軍平は母の愛の強さを改めて感じさせられた。
新島襄が他界したあと、同志社は自由主義神学の影響が強くなていくことに失望した軍平は、学問の神学よりも人を救う聖書の福音を実践しようと決断し同志社を退学する。1895年(明治28)、岡山の高梁教会で伝道活動をし、石井十次(伊嵜充則)の孤児院で働いていた軍平は、英国から救世軍が日本での活動を開始したことを教えられ石井十次の紹介状をもって上京し救世軍に入隊した。同じころ、明治女学校を卒業した佐藤機恵子(我妻三輪子)は、英国人たちが日本の文化に苦労しながら伝道し、他人を助ける社会活動に傾注している姿に心を動かされ救世軍の奉仕活動を手助けしていた。救世軍で伝道と奉仕活動に励む軍平の真摯な姿を見ていた機恵子は、やがて軍平からの求婚を受け入れる…。
【見どころ・エピソード】
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