
恩師、生島陸伸牧師の牧会伝道の働きをふり返るとき、まず心に浮かぶのは、「あるがまま、そのまま」という神の無条件の愛を、生涯にわたって語り続けておられた姿です。一週間の歩みの中で重荷を抱え、心が揺れ動きながら礼拝に戻ってくる私たちに向かい、いつも変わらぬ熱意をもって、神の無条件の愛、先行する恵みを説いてくださいました。私自身もその説教に育てられ、何度も励まされ、再出発の力をいただいた者の一人です。
一方で、「あるがまま」という語りが、「そのままで居続ければよい」という誤解を招くこともありました。しかし牧師は、使徒ヨハネの「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」という言葉に立ち、信仰生活も奉仕も、すべては神の愛への応答として生まれるのだと繰り返し教えてくださいました。生島牧師の説教は、生涯この一点に集中していたように思います。人間の努力や功績ではなく、まず神の愛があり、その愛に触れた者が必ず成長させられていくという確信が、説教の中心にありました。
高座教会で語られた最後の連続講解説教は、後に『講解説教―ヨハネの黙示録』として出版されました。そこに収められた説教「新しいエルサレム」には、牧師が生涯語り続けた「あるがまま」の福音が鮮やかに示されています。イエスは「だれでも私のところに来なさい」と招き、社会的評価や善行の有無に関わらず、価なしに受け入れてくださる。しかしその背後には、イエスが十字架で命を代価として支払ってくださったという尊い贖いがある。牧師は,その愛を知るとき、人は自然に「主よ、私は何をしましょうか」と応答へと導かれるのだと語っておられました。信仰とは義務ではなく、愛に触れた者が喜びをもって歩み出す道であることを、繰り返し示してくださったのです。
80年代後半、生島牧師の歩みに大きな転機が訪れました・・・
(次ページで生島牧師の転機、松本氏とのかかわりなど、約1200字)
