【ロングインタビュー】〝推しメン〟は誰? 熊本草葉町教会を訪ねて 熊本バンドの現在(後編)

森嶋牧師、熊本草葉町教会で

150周年を迎えた「熊本バンド」は、日本のプロテスタントを導いた一大源流だ。「熊本バンド」を通して、近代日本における青年たちの群像が見える。幅広く活躍したバンドメンバーに対して、地域ごとに〝推しメン〟(ひいきのメンバー)がいるという。「熊本バンド」の周辺をたどることで、日本におけるキリスト者の現在的な問いも見いだせた。1月末に、「熊本バンド」ゆかりの日本基督教団熊本草葉町教会(以下草葉町教会)を訪ねた。

教会訪問の前日(1月30日)には、「熊本バンド結盟150周年記念早天祈祷会」(前編記事参照)が、熊本市市街を東に見下ろす花岡山で開かれた。草葉町教会の森嶋道牧師が実行委員長を務める。花岡山での早天祈祷会は、毎年1月30日に開かれる。150年前のこの日に、後に熊本バンドと呼ばれる青年たちの主要メンバーらが花岡山で礼拝し、奉献趣意書に署名した。熊本洋学校で、キリスト者の教師L.L.ジェーンズの薫陶を受けてきた青年たちだ。

とどまらない祈りで花岡山に

「150年前のその日は、日曜日で、朝ジェーンズ邸で礼拝をしてから昼頃に上ったと見られています」

花岡山から市街を望む

ふもとから頂上付近までは、徒歩で20~30分かかる。行く道帰り道、様々語り合ったことだろう。花岡山での集会は、この日に限ったことでなく、以前から習慣化していたようだ。

熊本洋学校は1871年に開校した。73年までは禁教令があり、ジェーンズは契約において学校で教えることを禁じられていた。しかし74年から自宅で聖書の勉強会を始め、翌年には日曜礼拝もするようになった。礼拝後には、青年たちは花岡山に登るのが習慣になった。信仰の種がまかれた青年たちは、年末年始の帰省時も聖書を携え、各自祈った。

明けて1876年、熊本洋学校で授業が始まったが、連日連夜祈祷会が続いた。授業もままならず、伝道するものがいたり、聖書研究会が開かれたりしたという。「まだリバイバルや聖霊については、何も知らぬものたちである。しかし、彼らは黙していることができなくなり…」(金森通倫述懐、『近代日本の青年群像 : 熊本バンド物語』[竹中正夫編、三井久著、日本YMCA同盟出版部、1980年]から)という状況を経ての、花岡山の結盟だった。

焚火を囲んだ花岡山の早天祈祷会の様子

「ただ、非常に緊張感あることだったと思います。キリシタン禁教の高札は1873年に下ろされたばかり。熊本洋学校は、どこまでいっても和魂洋才の学校でしたから」と森嶋さんは言う

熊本洋学校は、熊本藩で主流となった、横井小楠の実学党の門下によって設立された。実学党は、儒学を基本にしながらも、西洋技術・知識を積極的に導入した。ジェーンズは米国の南北戦争に従軍した少尉だったが、戦後、農業に従事していた。長老派教会指導者の娘と結婚し、熱心なキリスト教徒でもあった。長崎にいたフルベッキ宣教師のあっせんで来日した。

同志社の形成に貢献

熊本バンドを紹介する様々な書籍

ジェーンズは牧師でも宣教師でもない。信仰をもった青年たちのことで悩むことも多かった。そのとき、書簡を交わしたのが、同志社のジェローム・D・デイヴィス宣教師だった。花岡山の件が問題となり、青年らは監禁されたり、懲罰を受けるなど迫害を受けた。熊本洋学校は閉校に追い込まれると、青年たちは同志社に転入した。

授業中でも成績順に席替えをさせるなど、徹底したエリート教育を受けてきた「熊本バンド」の面々は、開学して一年の同志社に新風を巻き起こした。授業方法を一新させる嘆願書で、新島襄の辞任を迫ったほどだった。「青年たちは、大阪の学校に転任したジェーンズともひそかに会っていた。やはり規則に忠実な軍人らしい気質というか、そこに入ったらそこのルールに従いなさいと。自分たちがダメだと思うんだったら自分たちで変えなさいと諭したようです。青年たちもここでやるしかないと腹が座って様々な改革をしていきました。夏の休暇には各地に出ていって、教会を立て上げ、行った先で同志社の入学志願者も集めていました」

そして、青年たちは卒業後も、同志社で教職に就く者、総長になる者などおり、初期の同志社を立て上げた。

奉教趣意書は信仰告白か 

奉教趣意書は、同志社大学に保存されているが、草葉町教会礼拝堂の背面にはレプリカが飾られている。

礼拝堂に飾られる奉教趣意書のレプリカ

「我々が、キリスト教を学んだところ、大変教えられるところがあった…」(原文:余輩嘗て西教ヲ学ブニ頗ル悟ル所アリ…)で始まる趣意書だが、森嶋さんは、「青年たちが信仰を持ったのは確かですが、趣意書の文面は、いわゆる使徒信条的な信仰告白ではありません」と言う。

たしかに同趣意書では、キリスト教の「妙旨」(真理)や、「公明正大」という言葉は見られるが、具体的な教理内容には触れていない。一方「皇国」や「報国」という言葉が見られる。

『熊本バンド研究 : 日本プロテスタンティズムの一源流と展開』(同志社大学人文科学研究所編、篠田一人監修、みすず書房、1997年)の論考「『奉教趣意書』の成立とその後」(辻橋三郎)では、ジェーンズ(辻橋氏表記は「ゼーンス」)の思想と比較して、奉教趣意書は、「ゼーンスの理想を継承した、キリスト教立国宣言であった」とするが、青年たちはゼーンスのキリスト教理解に及ばず、「キリストの再臨信仰に媒介されない、キリスト教的、民族的政治的な地上王国の建設」だったと指摘する。

森嶋さんは、「信仰の真理を見つけたというよりも、西洋への憧れとジェーンズ先生の信仰を見て習いたいと思う気持ちが信仰の始まりだったのだと思います」

もちろん、教会用語も、神学用語も日本語で定着していない時代、青年たちがキリスト教を知り始めて数年の文書だ。その後それぞれで聖書理解は深めたことだろう。

花岡山グループだけではない

趣意書には、35人の署名があるが、何人かは棄教のため、後に線が引かれている。一方、署名しなかったが、花岡山に集まった青年たちも女性を含めていたと見られている。

熊本洋学校内には、キリスト教に反発する人たちもいた。その「反対派」は、花岡山での結盟があったのと同じ日に、花岡山の東側の(現在の中央区にあったとされる)水前寺で反対集会を起こした。

森嶋さんは、「150年前花岡山では、ヨハネによる福音書10章を読んだという記録があります。『羊の囲い』の外の人たちを考えたのではないでしょうか。16節以降の『この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない…』(新共同訳)を読むと、青年たちは、いろいろな思いで、この日に臨んだと思います。本当はみんなで名前を書けたら良かった。一緒に学んでいる仲間たちですからね」と思いをはせる。

「実際、〝水前寺派〟の人たちの中にも回り回って、同志社に行き、結局熊本バンドになった人もいるんです。ある意味、花岡山グループと熊本バンドというのは必ずしも一致していないんですね。後に後輩たちが合流したりとかもありますから。面白いです」

たとえば反対派の代表、吉田昨弥は回心し、同志社で学ぶことになる。ほかにも花岡山で署名はせずとも、小崎弘道は、後に同志社総長就任、YMCAの設立、など日本を代表するキリスト教指導者となっていく。

さらに熊本洋学校では、女性も学んでいた。後に、海老名禅正の妻となるみや子や、同志社総長や国際基督教大学初代学長を務めた湯浅八郎の妻となる初子、女子美術大学を創設する横井玉子がいた。

ジェーンズ邸は、市内で何度か移設され、2016年の熊本地震では全壊したが、現在水前寺公園で再建されている

熊本バンドメンバーの〝推し〟は誰?

同志社大学神学部出身の森嶋さんが同教会牧師に就任したのは、2019年。最初の説教では、「ちょっとすべった」と笑う。「熊本で熊本バンドと言えば、大体は徳富蘇峰を挙げる人が多いですね、それで蘇峰について語ったのですが・・・」

会堂には同教会の牧師も務めた海老名禅正の書も飾られている

(次ページ[下部ボタン]で、熊本バンドの〝推し〟、草葉町教会が「熊本バンド」を継承する理由、熊本に息づく影響、宗教・思想の交錯する日本で、など、約2500字)

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