【追悼】ティモシー・ケラー氏逝去 リディーマー長老教会開拓 都市伝道の先駆者 文脈に合わせ福音提示
アメリカ福音派を代表する牧師で、ニューヨークで都市伝道を進め、リディーマー長老教会を開拓したティモシー・ケラー氏が5月19日、すい臓がんとの3年間の闘病の後亡くなった。72歳だった。クリスチャニティトゥデイ誌5月19日の追悼記事を、翻訳・転載する。
追悼:ティム・ケラー牧師 ニューヨークシティで魅力的な証しの模範を示す
「私たちは自分が考えたこともないほど罪深く、欠けが多い。だが同時に、私たちは自分が願うよりもずっと、イエス・キリストにあって愛され、受け入れられている。」
DANIEL SILLIMAN
ティム・ケラー氏はニューヨークシティの牧師として、若い都会派プロフェッショナルに働きかけた。クリスチャンの魅力的な証しによって、思いがけない場所であっても福音に耳を傾ける人を獲得できることを証明した彼は、5月19日、72歳で召された。すい臓癌と診断されてから3年が経っていた。
ケラー氏はマンハッタンにプロテスタント福音主義教会を開拓し、育て、教会開拓ネットワークを立ち上げ、The Gospel Coalition(福音連合)を共同設立し、神、福音、クリスチャン生活について何冊ものベストセラー書籍を著した。
どこへ行っても、彼は罪と恵みについて説教した。
「福音とはこういうことです」とケラー氏は幾度と なく 語った。「私たちは自分が考えたこともないほど罪深く、欠けが多い存在です。でも同時に、私たちは自分が願うよりもずっと、イエス・キリストにあって愛され、受け入れられているのです」。
ケラー氏は、特に後年においては、文化に迎合しているとして、たびたび非難された。彼は文化戦争の敵対主義や、リベラル派を罵倒するような伝道アプローチを拒絶した。そして、人々はこう非難した。彼は世の中とのつながりを重視しすぎている。社会に受容されたいという見当違いの願望を抱く余り、キリスト教の真理を骨抜きにしている、あるいは真理に背いているとまで言われた。
しかし、彼の説教と教えに一貫して扱われたテーマは、偶像崇拝だ。ケラー氏はこう主張した。人々は傷ついており、それを自覚している。だが、イエスだけが彼らを真に癒すことができるということを理解していない。神の恵みのみが、彼らの心底からの切望をかなえることができるのだ。
マンハッタンの彼の教会において、ケラー氏は米国の文化的エリートに対し、彼らは偽りの神を拝んでいると語った。
「私たちは、自分は美しいと感じたい、愛されていると感じたい、ひとかどの人間だと感じたいものです」と彼は2009年に説教の中で語った。「だから、私たちはこんなに躍起になっているのです。そして、それこそが悪の根源なのです」。
ケラー氏はNew York誌にこう説明している。この説教はある意味、罪についての古典的なメッセージだった。だが、多くの人は「罪」と聞くと、セックスや麻薬、あるいは盗みといったことしか連想しない。ところが、彼が働きかけようとしている現代のクリエイティブ層は、もっとたちの悪い多くの罪に取り囲まれ、それらの罪は、彼らの人生において神の愛に取って代わろうと押し合いへし合いしているのだ、と。
世の中に通じる言葉を持つという作業は、人々の魂をとらえている偶像は何かを見きわめることだ。そして、自由になれると人々に告げることだ。
マンハッタンの人々は、「生まれた時からずっと、親や音楽の先生、コーチ、教授、はたまた上司から、もっとうまくやれ、もっと良くなれ、もっと必死にやれ、と言われて生きてきた。」とケラー氏は2021年に述べている。「神ご自身が、イエスの生と死をとおして、正しくあれというこの要求に応えたのだと耳にすること、そして、その義を信頼する者には、今や何のとがめもないということ、それはすばらしく解放的なメッセージだったのだ」。
ケラー氏自身、このメッセージをバックネル大学の学生時代に聞いた。彼が生まれたのは1950年9月。ペンシルバニア州アレンタウン市で、父ウィリアム、母ルイーズ・クレメンテの子として誕生した。家族はルーテル教会に通っていた。若きティモシーは堅信準備クラスに2年間通ったが、せいぜい学んだことと言えば、宗教とは快い人になるためのものだということだった。
1968年に大学に進み、インターバーシティー・クリスチャン・フェローシップに関わるようになった。その理由の一つは、このグループのクリスチャンが公民権運動に関心を払っているように見えたからだ。まもなく彼は、キリスト教は真理だと確信し、イギリス人福音派、特にジョン・ストット、F・F・ブルース、C・S・ルイスの著作を読みあさった。
後年彼は、ルイスのことを自分の守護聖人と呼び、神を信じる理由についてルイスを引用するのを好んだ。
1972年に卒業後、ケラー氏はゴードン・コンウェル神学校に進んだ。そこでキャシー・クリスティという学生に出会う。彼女はルイスの本を読んで信仰を持ち、それどころか彼女が13歳の時にルイスが亡くなるまで、ルイスと文通していた。キャシーとティムは恋に落ち、1975年の卒業直前に結婚した。
ケラー氏は米国長老教会(PCA)で按手を受けた。この教団は約300の教会を擁し、これに先立つ2年前にアラバマ州バーミンガムで創立されていた。ケラー氏はバージニア州ホープウェルの教会への招きに応じた。ここはリッチモンドの南にある町で、連邦刑務所とジェームズ川に挟まれている。川はホープウェルで製造されたケポンという殺虫剤で汚染されていた。
新任牧師として、弱冠24歳で働きを始めたケラー氏は、失敗から学んでいった。
「皆と同じですよ。」と彼はWorld誌に語っている。「私の説教は長過ぎ、一部の人たちに対する私の牧会手法はうまくいきませんでした。私は率直過ぎることがあったかと思うと、率直さが足りない時もありました。誰も望んでいない新しいプログラムを始めました。でも、会衆は私を支えようという姿勢が強く、愛に満ちていたので、私は誰からも責められることなく、失敗をすることができたのです。
ケラー氏は説教を短くすることを学び、会衆が望まないプログラムを立ち上げないことを学んだ。さらに重要なことに、彼は牧会の働きの土台を信頼関係に置く方法を理解していった。
「私は(中略)学びました。リーダーのカリスマの上にミニストリーを築くことをしないこと。(どのみち私にはカリスマはありませんでした!)説教の技術の上に築くこともしない。(新米の頃の私には、そんなに技術もありませんでした。)むしろ、牧者として人々を愛すること、自分が間違っていたら悔い改めること、そういうことの上にミニストリーを築きました。」と彼は語る。「小さな町では、人々は自分が信頼する人についていくものです。自分の人柄を一人の人間として信頼してもらう。その信頼は、直接の人間関係で築くしかありません」。
9年後、ケラー氏はバージニア州を離れ、ペンシルバニア州に戻った。ウェストミンスター神学校で実践神学を教え、博士論文のテーマである「執事のミニストリー」に特に焦点を当てた。
彼はPCAの仕事も始め、教団の教会開拓の働きを支援した。だが、1989年にニューヨークシティで教会を開拓する人を見つけようとした時、見つけられなかった。
打診した人は皆、断ってきた。まずいアイディアだと言われた。
「ほとんどの人に、無駄骨になると言われました。」ケラー氏は後に回想している。「マンハッタンは懐疑論者、批判者、皮肉屋の街です。教会にとっての伝統的市場である中流層は、犯罪と物価高を理由に街から逃げ出していました」。
もちろん、全員が逃げ出せるわけではなかった。白人が転出した結果、あとに残された多くの活気ある都市教会は、アフリカ系アメリカ人、アジア系アメリカ人、ラテンアメリカ系アメリカ人コミュニティに仕えるようになった。この街はまた、若い白人層を引き寄せた。彼らは野望を抱き、高学歴で意欲的な世界的リーダーであり、誰よりも教会に行きそうになく、キリスト教から何か得られると考えてもいなさそうな人々だった。
ケラー氏と妻はリディーマー長老教会をマンハッタンに開拓し、こうした若い人々をターゲットにし始めた。
ケラー氏は、40歳にしてニューヨークシティに引っ越すとはどういうことか思い巡らした。そして、どれだけの若者が国内の至るところからやって来て、同じ経験をしているだろうかと考えた。
「第1に、自分と同じような人がうようよいるわけです。しかも皆、自分より優れている」と、彼は語った。「テキサス州ホットコーヒー市ではいちばんのバイオリン奏者だったけれど、ペン・ステーションで汽車を降りると、なんと、目の前にお金を集めている人がいて、バイオリンを弾いているんです。しかもその女性は自分より上手い。それで、とにかく必死になって、練習、練習、また練習です」。
ニューヨークに引っ越して来た人に起こる第2のことは、大都会以外ではけっして経験できないような多様性に出くわすということだ、とケラー氏は言う。新来者は毎日、自分とは違う考え方をする人に囲まれる。
「そうなると、自分がやりたいことについて、それまでなら思いつきもしなかったような強力な理由づけを見出すか、新しい考えを取り入れるか、どちらかになります。」と彼は語っている。
教会において、ケラー氏はその両方を行った。宣教と彼のメッセージの中核は、ホープウェルの時と同じだったが、彼とスタッフはそれを、異なる文脈に合わせて解釈しようと試みた。彼らの最重要指令は「普通のやり方の教会はうまくいかない」であり、「前例は無意味だ」と何度も繰り返した。
教会は最初の10年間にある程度の成功を収めた。1989年末には、通常出席者数が約250名になっていた。1990年秋には600名が集い、その中にはとにかくケラー氏の話に興味を持っていただけの未信者も少なからずいた。
リディーマー教会が全米の注目を浴びる劇的瞬間が訪れたのは、2001年のテロ攻撃が世界貿易センターを破壊した後だった。
直後の日曜日、5千人以上の人が教会にやって来た。全員が入れるスペースがなかったので、ケラー氏は第2礼拝を行うと約束した。数百人が戻って来た。この街がいくぶんか通常に復する頃には、リディーマーの週平均出席者数は約800名増えていた。
ケラー氏とリディーマーのスタッフは、都市部で教会開拓をしたいと願う人たちを支援し始めた。2006年には、リディーマーはPCA内に16の子教会を持ち、その他に多数の教団の約50の教会をニューヨークシティに開拓するのを手伝っていた。
ケラー氏はまた、ボストンやワシントンDC、果てはロンドンやアムステルダムに至るまで都市部の牧師に対し、各都市で福音をどう文脈化するかについてコーチングした。
数年後、ケラー氏は弁証論の著作「The Reason for God(神の根拠)」を世に出した。この本は神についての疑いを真剣に受け止めつつ、懐疑論者に対し、彼ら自身の「信仰の飛躍」を示し、疑いの向こう側に行き着くためにクリスチャンが昔からたどってきた道筋を提示しようと試みる。
ケラー氏は、同時代の最も人気を博した信仰批判者である「新無神論者」に向き合い、幅広い思想家を引き合いに出して、信仰には合理的理由があるという主張を展開した。彼が引用したのは、C・S・ルイスや神学者N・T・ライトの他、哲学者セーレン・キェルケゴール、社会学者ロドニー・スターク、小説家のフラナリー・オコナーやアン・ライスにも及んだ。
「The Reason for God」はニューヨーク・タイムズのベストセラーリストで7位に上りつめ、ケラー氏は当時第一線の文化イベントで語る機会を得た。Googleで信仰について講演し、Big Thinkでインタビューを受けた。後者は新しいウェブサイトで、「現代の最も優れた知性と最も大胆な思想を持つ人々」との会話を収集・整理して公開している。
ケラー氏は当時、多くの福音派にとって、社会文化とのつながりの模範となった。文化戦争といえば、たとえば郊外に親しく寄り添うこと、教会の政治的動員、反知性主義の強い重圧などがあるが、ケラー氏のアプローチは、こうした文化戦争はクリスチャンの証しを損なってきたと感じる人々の間で、特に人気を博した。
ある本誌編集者はこう綴っている。「今から50年後、仮に福音派クリスチャンが、都市に対する愛と、あわれみと正義に対する献身と、隣り人への愛という点で広く知られているならば、ティム・ケラーの名前は都市の新しいクリスチャンのパイオニアとして記憶されていることだろう」。
だが、誰もがこのビジョンに賛同したわけではない。たとえばグローブシティ・カレッジのカール・トルーマン教授は、都市に対するケラー氏の愛と、都市の人々に届くことができるというケラー氏の楽観主義に異を唱えた。
「私にとって、都市は必要悪であり、都市の唯一の目的は、私のような田舎の人間が時たま劇場に行くために出かける場所だ。」とトルーマン氏は記す。「私はケラー氏のような楽観的変革主義者ではけっしてない。まじめな話、物事は悪化するだろう。そして、その後はさらに悪化するに違いない」。
ケラー氏はあまり好意的でない批判にもさらされた。一部の人は彼をマルクス主義者と評した。しかも、マルクス主義をクリスチャンの聴衆のために包装し直すことに、ことさら長けた、人目に立つマルクス主義者」とまで言われた。
ケラー氏が、正統派クリスチャンは米国の二大政党制における一つの政党を信奉するべきではないと主張した時、ケラー氏は社会がどう変化したかについて大いに誤解していると評する人々もいた。キリスト教の真理にすでに非常に敵対的な世界にあって、「魅力的な」アプローチは機能しない、と彼らは主張した。
First Things誌編集者のジェームズ・R・ウッド氏は、かつてケラー氏に傾倒するあまり、ケラー氏の最新刊を自分の結婚式介添人に贈った。妻と犬を飼い始めた時には、このニューヨークの牧師にちなんだ名前を付けた。
しかし、2016年の選挙の際、彼の中で何かが変わった。
「私たちを取り巻く社会の態度が変化するのを見るにつけ、」とウッド氏は記した。「私がケラー氏から学んだ伝道的枠組は、この社会政治的節目にあって、十分な指針を与えてくれるかどうか、もはや自信が持てなくなった。私のようなかつての支持者の多くが、同じような結論に到達している。福音に耳を傾けてもらうために、耳障りの悪いことは最小限にしたいという伝道上の願望によって、今の政治的節目にあたって求められていることが、うやむやにされてしまいかねない」。
ケラー氏は長年の間に、こうした批判の一部に応答してきたが、だいたいにおいて平静を保ってきたように見える。マンハッタンの教会の牧会を続け、66歳で退任した。
その後も教会開拓ネットワークのシティ・トゥ・シティの働きを続け、講演や執筆活動をした。
2020年、ケラー氏はすい臓癌であることを公表した。過酷な治療を受けながらも、ケラー氏は相変わらず牧師らしく、神と福音とクリスチャン生活について語り、書き続けた。機会あるごとに、彼は人々の目をもう一度、罪と恵みへと向けさせた。
彼はもう一度人々に奨めた。生と死において、人々の心底からの切望は、彼らの目をキリストへと向けさせるということを考えてほしいと。
「もしイエス・キリストの復活が本当に起こったことなら、」とケラー氏はニューヨーク・タイムズ誌に語った。「最終的に、神はすべてを正してくださるはずです。苦しみはなくなります。悪はなくなります。死はなくなります。老いはなくなります。すい臓癌はなくなります。ではもしイエス・キリストの復活が起こっていなかったら、すべて帳消しになるでしょうね。でも、もし本当に起こったことなら、この上ない希望があるのです」。
ケラー氏の遺族はキャシー夫人と、3人の息子のデイビッド、マイケル、ジョナサンである。
翻訳:立石充子
(クリスチャン新聞電子版電子版6月4日号掲載記事)