Illustration by Tara Anand

近年、様々な形で福音主義の再考がなされてきた。その中で、20世紀後半に袂(たもと)を分かった根本主義(ファンダメンタリズム=原理主義とも訳される)の中に救い出すべきものがあると、本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイのシニア書籍編集者マット・レイノルズ氏が論考を執筆している。

 振り子が過剰な修正に振れすぎている

堕落した世界では、改革の努力が完璧に目的を達成することは決してない。一つの問題に対処すると他の問題の種をまいたり、感染症を攻撃しすぎて、健全で活力のあるものを弱めたり破壊したりする。修正と過剰修正の間のこの微妙な揺れにおける失敗は、政治の分野ではよく知られているが、宗教問題でも同じパターンが見られる。

約25年前、神学者リチャード・マウは、当時の福音主義の状況を調査した短い本を書いた。彼は福音主義がそれ以前の根本主義を完全に覆い隠してしまったことを心配していた。『おがくずの匂い|福音主義者が根本主義の遺産から学べること』(2000年、未訳)と題した考察は、欠陥のある過去と向き合う健全なアプローチのモデルとなっている。

近代主義への対抗

ある意味で福音主義は、イエスが初めて世界に伝える福音を与えて以来存在してきた。しかし、現代の運動としては、根本主義の過剰な修正に対する矯正として20世紀に出現した。
根本主義という言葉は、聖書を打ちたたいて強調する熱狂主義者の同義語ではない。根本主義は、19世紀後半の「近代主義」に対抗した。近代主義キリスト教はイエスの処女懐胎や肉体の復活など、科学を愛する同時代の人々が不快に思う超自然的要素を修正した。
根本主義者は重要な境界線を引いた(この名前は、キリスト教の核心教義を擁護するエッセイ集『The Fundamentals』に由来する)。しかし、時が経つにつれて、彼らは口論好きで閉鎖的になり、道徳的純潔のテストや聖書の預言の難解な筋道で頭がいっぱいになった。文化からの拒絶に動揺した彼らは、キリストの光を世界に輝かせることよりも、世界の終末について思索することに多くのエネルギーを費やした。
『おがくずの匂い』は、世紀の変わり目に福音主義者に問いかけた。「あなたたちは過剰な矯正に手を染めているのか?」

1940年に生まれたマウは、根本主義の世界に浸りながら育った。彼は聖書集会でディスペンセーション主義の神学を学び、サマーキャンプの厨房(ちゅうぼう)で働き、リバイバルテントの香りを吸い込んだ。
しかし、同世代の多くの信者と同様に、マウは結局別の道を歩むことになった。近代主義の異端や文化的後退の原理主義的習慣を避けたいと切望した彼は、「新福音主義」の道を歩み、ビリー・グラハムのような指導者、クリスチャニティトゥデイのような出版物、フラー神学校(マウは20年間学長を務めた)のような機関を生み出した。
マウはその旅を後悔していない。実際、この本の大部分は福音主義の功績を称賛している。しかし、それでも彼は「若い頃に自分を育ててくれた根本主義への恩義」を感じ続けている。

私(レイノルズ)の子ども時代には、根本主義的な特徴はほとんどなかった。それでも、『おがくずの匂い』を読んで、その遺産のどの特徴を救い出す価値があるのかと自問した。ここですべてを網羅することはできないが、マウの本から 25 年経った今、振り子が過剰修正の方向に大きく振れすぎている可能性がある 三つの領域を提案したい。

個人的な信心と道徳

一つ目は、個人的な信心深さと道徳に関するもの。根本主義者は、行動の境界線を設定することにためらいがなかった。それは飲酒、ダンス、カード、その他の悪事への入り口とされるものについて、律法主義的な行き詰まりや愚かな断罪につながることが多かった。しかし、罪深い世界の誘惑から身を守ることは間違っていなかった。
福音派の著者は受肉を万能の道徳的許可証として利用している、と冗談を言うことがある。イエスは地上に住んでいたので、世界は汚れておらず、善良であると。良心を責められずに果実を味わうための便利な根拠だ。
もちろん、これは風刺だ。正しく理解すれば、福音主義は無律法主義を拒絶し、心の姿勢を見つめる点でイエスに従う。しかし、私がこだわりのなさで無宗教の友人を安心させてきたことを考えると、神がその民に命じた聖別を求めていないのではないかと心配になる。

知性主義への警告

第二に、私は、知性主義の落とし穴に関する根本主義者の警告を重んじるようになった。根本主義者は途方もない知的エネルギーをその追撃に注ぎ込んだ、とマウは指摘する。最悪の場合、彼らは世俗的な知識を邪魔、無関係、または聖書の権威のライバルとみなす不健全な疑念も抱く。
その考え方は、読書と学習の本来の善良さに関する私の信念と衝突する。マウもそれに対してほとんど我慢できない。しかし彼は、根本主義者の警告のどこに注意する価値があるかを示す。神学は心を変えずに頭に留まる可能性があり、啓もう主義的な合理主義の一部は宗教的信仰を排除する。福音主義者は常に、心を新たにするという神の呼びかけに従うべきだ。
しかし、頭の良さがステータスシンボルとして機能すると、知的な野心は、世俗的な仲間からの尊敬や福音派の仲間からの距離をとることに堕する可能性がある。

魂の永遠の運命

最後に、私たちは個々の魂の永遠の運命に対する根本主義者の強調点をいくらか取り戻すことができると思う。
マウは、人々が深く永続的な献身をするよう促されたリバイバル的な祭壇への呼びかけについて書いている。もちろん、感情的な訴えが一時的な信仰告白を生み出す可能性があることを彼は知っている。また、改宗のカタルシス的な瞬間が、定期的な教会の交わりや忍耐強い弟子としての生き方に取って代わることはないことも知っている。しかし彼は、そこには大きな賭けが伴うことを強調する。人々が救われるかどうかは重要なのだ!
明らかに福音派はこれを信じている。しかし近年、福音主義の指導者たちは、神の救済の宇宙的範囲を描写するために多大な労力を費やしてきた。神は失われた魂を集めて楽園に戻すだけではない。創造そのものを新たにし、永遠に王として君臨する。
私は、この素晴らしいメッセージを説教壇から響かせたい。だが、実存的恐怖の永遠の源である「死んだらどうなるのか」を利己的で重要でないと見なす考えにはうんざりする。福音は、「天国に行く」よりもはるかに多くのことを約束しているが、それ以下ではないことは確かだ。

私は、欠点もすべて含めて福音主義の伝統に感謝する。マウと同じように、それを今も養っている根本主義の流れに感謝し続けている。確かに、その中には腐食したガラクタもある。しかし、貴重な宝石もあるのだ。

2025年02月09・16日号 10面掲載記事)