東日本大震災 から14年 災害支援から日常の助け手に 伝道と社会奉仕の両輪で宣教
保守バプ・塩釜聖書バプテスト教会 フードバンクNPO「いのちのパン」

東日本大震災から14年目を迎える。大災害は日常の中での教会の在り方も問うものとなった。宮城県沿岸、多賀城市の保守バプ・塩釜聖書バプテスト教会(以下SBC)は、震災支援の働きをフードバンクNPO「いのちのパン」に継承し、全国に働きを広げる。「困窮」の実態にも触れ、地域社会における教会の使命を新たにさせる働きとなった。【高橋良知】

JR仙石線や国道45号線にほど近い丘の上に、SBCの会堂が立つ。西には遠く蔵王山を望み、東側は学校や住宅街を見渡せる。2011年3月11日、現主任牧師で、当時副牧師だった大友幸証(ゆきまさ)さんは、教会スタッフらとともにコーヒーを飲んで休憩をしていた。突然尋常でない揺れを感じ、外に飛び出すと、会堂上部の十字架は千切れんばかりに揺れていた。サイレンが各地で鳴り響いた。
北は塩釜港、東は貞山運河、南は仙台港方面、いずれも教会から約1~2キロの低地は津波にのまれた。数日後には超教派のつながりから、支援活動の連絡が届き、各地からの物資、ボランティアを受け入れた。物資は二階礼拝堂、ボランティア宿泊は一階へ。やがて隣接する教育館などを拠点に支援活動「ホープみやぎ」が展開した。
SBCの信徒6家族が被害を受けた。四つ形成していた「家の教会」のうち、仙台市若林区、亘理郡亘理町の二軒が被災。当時の主任牧師・大友幸一さん(幸証さんの父、現開拓担当牧師)の実家は津波で、農機具や自動車が流された。母は助かったものの、叔父は亡くなった。日頃実家で農作業もしていた幸一さんは、変わり果てた故郷の景色を悲しんだ。この経験はやがて「天の故郷」を待ち望む動機にもなった(『東日本大震災と教会増殖』[アジアンアクセス・ジャパン、2016年]参照)
国内外からの支援拠点となれた理由として、沿岸高台という立地条件や超教派のつながりなどもあるが、幸証さんが強調するのは「フィロソフィー(宣教思想)」の存在だ。
震災前に見直した伝道と社会奉仕
震災前、先代主任牧師の幸一さんは、「みことば中心」の伝道に行き詰まりを感じていた。宣教思想を見直す中で、初代教会の在り方に注目した。「家の教会」という教会形成、さらに伝道活動と社会奉仕活動の両輪で宣教が進む、という宣教思想にいたった。高齢者施設への慰問や英語教室、車いす修理など、いくつかの活動で地域とのつながりをもった。
教会員で、「いのちのパン」副理事長の千葉妙子さんは、「奉仕は、教会の中だけでなく、外に向けて隣人愛を実践していくことでもある。震災前から伝道と社会的奉仕の両方が大事だと牧師が言っていたが、どう実践するかは、模索中だった。震災は、それを確かめる機会になった」と話す。
定期的な学び会も重視している。幸証さんは「『いのちのパン』のスタッフの多くは、月二回聖書の学びに参加している。震災支援時も、どんなに忙しくても、学びを大切にした。現場は目まぐるしく、それぞれで動いて混乱することがある。一緒に集まり、神の御心をみなで知ることが重要。双方向的な学びをしてきた。牧師が命令して、信徒が我慢してやる、という関係ではない」と話す。 震災から数年すると、様相も変わった。「いのちのパン」の理事の一人、早坂良一郎さんは、「いつまでも『被災者』と言う表現を使うのは好ましくないと思われた」と言う。地域貢献としてのフードバンクの働きが本格化していく。(5面につづく)
(2025年03月09日号 01面掲載記事)