Illustration by Lisk Feng

ナチスに抵抗したドイツ告白教会の牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが、ヒトラー暗殺計画に加わり処刑されてから4月9日で80年。巨悪を止めるための暴力というボンヘッファーの選択は様々に議論されてきたが、同時代のオランダ改革派に、暴力とは別の形で抵抗した知られざる牧師・神学者がいた。キリスト教倫理学者であるジャレド・ステイシーの論評を、本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイ誌が伝えた。

政治的暴力でない聖なる破壊工作

社会におけるキリスト者の役割とは、暴力に関する「宿命と必然を打ち砕く」ことである。この課題には牧会神学の強固なビジョンが必要である。この新たなビジョンの源となる可能性の一つは、ナチス占領下のオランダ改革派の牧師・神学者コルネリス・ハイコ・ミスコッテの歴史的証しである。
ミスコッテはアドルフ ・ヒトラーの政治体制に反抗し、命がけでユダヤ人を自宅に保護し、著作を通して神学的に抵抗した。彼はボンヘッファーと同時代人であり、カール・バルトの崇拝者でもあったが、大義のために死にはしなかった。
ドイツの神学者ハンス・ウルリッヒは「ボンヘッファーの証しは彼の死ではなく、神の意志を全うしようとする願望である」として、次のように主張する。ボンヘッファーの信仰は、日常的に神の意志と長年格闘し、教会が同じように行動するのを助けたことから生まれた。日常の忠実さに根ざした強固な牧会神学のみが、悪に対する忠実な神学的抵抗を生むのである、と。

抵抗を生む牧会神学

聖書的な牧会神学は、「誰を信頼するのか」「何に望みを託すのか」という問いに教会員が答えるための資源を聖職者に与えるべきである。ユージン・ピーターソンが言うように、牧師の主な仕事は、党派的な大義のために信徒を鼓舞することではなく、「人々に祈りを教え、良い死に方をするように教えること」だ。
牧会神学がこれを可能にする一つの方法は、神のことばの力を人々に思い出させることである。同胞であるオランダ市民が敬虔な無為無策か暴力的反応かという高度な選択を迫られたとき、ミスコッテは神学に支えられ積極的な政治的抵抗へと彼らを導いた。それは単純で根源的な「耳を傾ける」という行為から始まる、と彼は信じていた。
多くの人々が行動を求めて叫んでいる。しかしその根源的な行動とは、旧来の世俗的な権力に対する抵抗として生まれ、殉教と新しい歌を生み出し、新しい告白、そして苦しみと行動によって「聞く」ことなのではないだろうか。
ミスコッテは、ナチスによるアムステルダム占領が、聖書に対する驚くべき新鮮な渇望をもたらしたことを知った。彼はそうした地下集会のいくつかを導き、聖書に対する切実なニーズに応えるために学習ガイドを出版・配布した。
彼の小冊子『聖書のABC』は、ナチズムの宗教的ルーツを標的にしていた。この入門書は神の御名の重要性から始まり、それを権威主義と真理の腐敗に対するあらゆる「抵抗」の「礎石」と見なした。生ける神に再び出会い、聖書的であることの意味を再考することで、オランダのキリスト教徒がナチスの占領に対する「よりよい抵抗力」を培うことを期待した。

聖別された妨害行為

ミスコッテはキリスト教の聖化とは破壊行為の一形態であると考えた。聖書とイエス・キリストにおいて啓示されたイスラエルの神は、「最初から妨害者である」とミスコッテは言う。
イエスは神と宗教に関する私たちの人間的な考えを覆すだけでなく、聖化は私たちの人生とそれを規定する社会政治的世界に対する神の継続的な聖なる破壊工作を私たちに開始させる。聖書の聖性とは単なる道徳的美徳ではなく、聖別された妨害行為であるとミスコッテは主張した。

世の主権を覆した「イエスは主」告白

忠実な弟子であることは、1世紀のローマ世界に始まり常に政治体制にリスクをもたらしてきた。当時、「イエスは主である」と宣言することはカエサルの全権を主張することに疑問を呈することであり、したがってこの告白はローマの秩序とそれを構築した暴力に対して間接的に妨害する破壊行為と見なされた。
「クリスチャン」という言葉も、最初はローマ当局が初期の信者を危険な政治的扇動者、パクス・ロマーナ(ローマの平和)の敵としてコード化する方法として登場した。
初期のキリスト教徒がユダヤ教のメシアに帰依してカエサルの主権を覆したように、ミスコッテや告白教会のような 「破壊工作員」はヒトラーの覇権を脅かしたのである。こう書くと、キリスト教の伝統があからさまな政治的姿勢や反抗と結びついているように聞こえるが、神の破壊工作は究極的にはこの世のものではない。
聖なる破壊工作は、十字架につける力によってではなく、十字架につけられた者の力によってもたらされる。キリスト者であるということは、イエスだけが主であり、ライバルも対抗勢力も持たない神であることを告白することである。破壊工作員である神は、怒り、国家、大義名分、主義主張など、私たちを暴力に向かわせるすべての要素を私たちに残さない。むしろ、私たちをご自身のためにそこから引き離してくださるのだ。
私たちは反乱を起こす人々・場所(教会)となる。そこでは、私たちの社会的、政治的世界の物語やスローガンが力を失い、十字架にかけられるのだ。教会共同体は、その本質において世界への公の証言である。それは、帝国建設に際して私たちが自然に採る、時として暴力的な方法を放棄し、イエス・キリストが超自然的に備えてくださるものを受け入れるようにという招きなのである。
現代の政治的暴力に抵抗するためには、教会が神のことばの共同体としてのアイデンティティーを新たにする必要がある。

2025年03月16日号 06面掲載記事)