【書評】「和解」の概念は聖書において自明なのか 『聖書における和解の思想』評・山口希生
本書には7人の研究者による聖書的な「和解」についての研究の成果が収められていますが、実は「和解」は聖書において頻繁に登場するテーマではありません。
藤田潤一郎氏は「旧約聖書正典の本文には和解を含意する言葉はない」(76頁)と指摘していますし、辻学氏も「『和解』という概念は、キリスト教神学においてはおなじみのものであるが、新約聖書にその根拠を求めようとすると、意外に用例が少ないことに気づく」(222頁)と記しています。その理由の一つとして、神と人との関係を考える上で「和解」という概念は問題含みであることが挙げられます。
どういうことかというと、具体的には「赦し」と「和解」との違いを考えれば理解しやすいでしょう。「赦し」の場合は、一方が善で他方が悪であるという前提に立ち、被害者が加害者を赦すという構造になっていますが、「和解」という言葉からは、当事者双方がお互いに多少なりとも非があることを認め合い、折り合うというニュアンスが伝わってきます。
「和解」と「示談」という言葉がしばしば同義語として使われることからも分かるように、和解の場合にはどちらかが一方的・全面的に悪いというアプローチを採りません。裁判でも「勝訴(敗訴)」と「和解」とは違うのです。そうなると、神が人を赦すというのはよく分かる一方、神と人とが和解するというと、「神にもいくらか非があるのか?」というおかしな疑問が生じてしまいかねません。
このように、神と人との和解という考え方は、よくよく考えるとそれほど自明な話ではありません。では、神と人との和解という(不思議な)神学概念のルーツはどこにあるのか? という疑問に取り組んでいるのが本書なのです。そのルーツはパウロ書簡にあるのではないか、と聖書に親しんでおられる方は思われるでしょうが、それは正解です。本書を通じて、さらにこの問題への理解を深めてくだされば幸いです。
(評・山口希生=日本同盟基督教団中原キリスト教会牧師)