「同性愛」と聖書解釈〈2〉 聖書の規範性と時代的制約 解釈者自身に潜むバイアス
新刊『「同性愛」二つの見解 聖書解釈をめぐる対論』の朝岡勝氏による書評の2回目(全4回)。
前回
《神学》「同性愛と聖書解釈」 LGBTQ+ 異なる立場の対話 書評・朝岡 勝
では私たちの場合はどうでしょう。広範かつ緻密な先行研究からの謙虚な学習、その学びに基づく成熟した議論や真摯な対話の場はいまだ開かれておらず、議論の入口で入るか否かを二分する肯定・否定の対立構造が深まっているように思えます。それによって神の御前にあるひとりの人の存在が揺さぶられ、ある人々を生きづらくさせ、教会の外へと排除することになってしまっていることを憂慮します。
こうした中での本書の出版は物議を醸すかもしれませんし、訳者の顔触れがすでにある立場を表明しているとみられるかもしれません。本書評にも異論を唱える方々が多くおられるだろうと予想します。しかし十分な学びもないまま「周回遅れ」を取り戻そうと焦るばかりでは地に足が着きませんし、「否定以外は肯定」と決めつけて対話の場も開かれないことは避けたいと思います。
まずは虚心坦懐(たんかい)に「伝統派」、「肯定派」各々の主張、それらへの応答、論者のまとめをじっくりと読み、反芻(はんすう)したいものです。評者自身もこれまで様々な方々と出会い、教えられてきた者の一人として、魂への配慮の務めを委ねられている牧師の一人として、そして日本の保守的な教会で信仰を培われてきた50代後半のストレートの男性の一人として、本書から教えられたことや考えさせられていることを端的に記すことにします。
聖書の規範性と解釈
第一に「聖書の規範性と聖書解釈の関係性」についてです。他の類書と同じく本書でも聖書的人間観の規範となる創世記1章、2章、「同性間の性行為」を禁じるレビ記18章、22章、それらを罪の表れとするローマ書1章、Ⅰコリント6章、Ⅰテモテ1章などのパウロ書簡の釈義に多くの頁が割かれています。
「伝統派」は創世記1章、2章、ローマ書1章を規範として、同性愛、同性婚、同性同士の性行為を「創造の秩序」からの逸脱、倒錯としての「罪」の影響とします。他方「肯定派」は上記の箇所の歴史的背景と時代的制約を除去し、全人的な「罪の影響」の中から同性愛だけを抽出して問題視することに疑義を呈します。この点は福音主義の聖書信仰に直結する議論ゆえに当該箇所の釈義に議論が集中することは当然のことでしょう。
聖書の規範性は近代的理性によるテクスト解釈の多様性によって揺らぐものではありません。それとともに聖書の規範性は当然ながら「聖書がそこにある」という事実で担保されるものでなく、歴史的・文法的・神学的釈義と読解によって明らかにされるものでもあり、当時の社会規範や時代的制約、そこに厳然として存在していた差別や搾取の構造を顧慮しないわけにはいきません。
解釈学的前提の自覚
そこで第二に、、、、、