《神学・教会の宣言文》アメリカ対立と分断の時に〝新バルメン宣言〟必要?
1930年代ドイツで国家社会主義を鼓舞したヒトラーを多くの教会が支持する中で、ルター派、改革派、合同教会の神学者・牧師らが形成した「告白教会」が1934年5月に採択したバルメン宣言は、その危険性に警鐘を鳴らした神学的表明として知られる。今、このような宣言が必要だろうかという問いが、アメリカの福音主義者の中から多く聞かれるようになっているという。本紙提携の米福音派誌クリスチャニティトゥデイが、『From Isolation to Community(孤立から共同体へ)』の著者で非暴力主義の論客であるマイルス・ウェルンツ氏の論考を掲載した。
ネットにあふれる個人的・実践的な勧告
教会から上へ再構築する共同体の発信にこそ意味が
教会への出席率は低下し、教会のスキャンダルは多発し、キリスト教界ではトランプ新政権とその移民、宗教擁護、法の支配、人道的プログラムや政策への対応についての懸念が高まっている。私たちは新たな宣言文を書くべき時なのだろうか?
まず、オリジナルのバルメン宣言が当時何を意味していたのか、そして同様のものが今日何を意味するのかを問うことから始めるべきだろう。
ドイツ全土のプロテスタント信徒へのアピールとして、この文書はナチス政府によってドイツの教会に押し付けられる「異質な原理」の脅威を強調した。その中には、今日のキリスト教徒にも馴染み深いもの(ナショナリズムや政府による安全の約束など)もあれば、アメリカの状況にはあまり関係のないもの(教会の告白に対する政府の干渉など)もある。
そのような脅威の最たるものは、教会が教会である権能に対して政府が支配権を行使することだった。ナチス政権の最初の年、国教会の監督を代表にヒトラーへの忠誠を中心とする「ドイツ的キリスト者」運動が形成された。バルメン宣言はその動きに対応したもので、イエス・キリストと政府への忠誠の両方を肯定する「第三の道」を切り開こうとする人々に真っ向から反対する文書だった。
ドイツのキリスト教徒には1934年の時点でまだ完全には見えていなかった多くの試練が待ち受けていた。神の契約の民であるユダヤ人の絶滅を否定することについて、この文書には欠けている。しかし、教会がどのように福音を宣べ伝えるべきかを政府が決めるというヒトラーの主張、国家社会主義の文化的傾向に神の意志を読み取ることができるという仮定、教会は国家に従うべきだという考え方など、差し迫った懸念には応えている。
この宣言は、ドイツにおける二つのプロテスタントの軌跡の分岐点となった。ヒトラーの党に従順だったドイツ福音主義教会と、従順ではなかった告白教会である。この文書が発表された後、告白教会は組織化を開始し、新しい神学校を設立し、ヒトラーにノーと言う意思を持つ牧師を擁する新しい小教区を設立した。
ヨーロッパのキリスト教界を代表する人物たちによって作成されたバルメン宣言は、キリスト教史と私たちの想像力の中で輝く光であり続けている。しかし、その到達点は限られていた。
信仰告白としてではなく宣言として意図されたこの文書は、通常の教会形成に役割を果たすことは意図されていなかった。宣言文の起草者たちは、まどろんでいる教会に差し迫った危機を呼び起こすことを望んだが、その声明文が地域教会の規律を定める権威を持つことはなかった。
宣言はまた告白教会の組織的な急速な衰退も被った。37年までに内部分裂が起こり、福音ルーテル教会はこの運動から離脱した。40年までに告白教会の指導者の多くが逮捕された。ディートリッヒ・ボンヘッファーの手紙などにあるように、財政、教会支援、ナチス政府による法的規制などの問題が告白教会の終焉(しゅうえん)を早めた。
では今日、これに匹敵するような宣言はどのような結果をもたらすだろうか。アメリカのキリスト教徒には、非常時に声明を発表してきた長い歴史がある。
キリスト教とアメリカのアイデンティティーを融合させようとする取り組みに対する気づきを促すことを目的とした「キリスト教ナショナリズムに反対するキリスト者たち」の声明や、イスラエル支援に関する南部バプテスト倫理・宗教自由委員会の最近の声明を考えてみよう。特定の政治的な出来事に対応して作成されたこれらの文書は、神学的なカテゴリーによって特定の問題を認識させようとしている。
バルメン宣言の神学を踏襲した2024声明
最新の主要声明は2024年に発表された。「社会的対立と政治的分断のこの時に」と書かれたこの声明は、ほとんど議論の余地のない神学的真理(イエス・キリストへの忠誠、聖書の真理、神のかたち)をなぞり、分断の中でクリスチャンがどのように生きるべきか(恐れ慎み、それぞれの命を大切にし、指導者をその品性によって判断する)を概説している。この声明や他の声明は、ほぼバルメン宣言を踏襲している。しかし三つの重要な点で異なっている。
第一に、バルメン宣言は神学的原則を明確にすることに主眼を置いている。その構成要素全体にわたって、神学的な一点を明確にしている。すなわちイエス・キリストが主であり、国家は主ではないということである。では何をすべきかについての実践的な指針は示していないため、ナチスの行き過ぎた行為に端を発しているとはいえ、さまざまな文脈のキリスト教徒に適用できる。
対照的に、現代の声明は、特定の時代、場所、政治的文脈に結びつけた実践的な勧告に終始する傾向がある。例えば24年の声明では、「政治的分断のこの時」がどのような告白を含むかを決定している。「私たちは恐れではなく愛をもって指導します」というような実践的な勧告は、聖書の権威、イマーゴ・デイ、指導者の敬虔な人格の必要性といった神学的提起とともに言及されている。
第二に、バルメン宣言は、その神学的ビジョンにコミットする機関を通じて機能するように企図されていた。告白教会がバルメン宣言の実践的な意味を掘り起こしたのは、会堂、教会協議会、委員会、教室などであった。現代の福音主義的声明は、通常、自らの真理を形成し、維持し、具体化するために、制度的機関に頼ることはない。
組織的な説明責任を持たない人々が署名
主に大学関係者によって作成された2024年声明は、様々な人々が署名したが、これらの考えを実行に移すために使える背景がない。署名者たちが代わりに頼りにしているのは、善意、個人の自由、宣伝、自由な結社である。署名者全員が「個人的な立場で」署名したことは注目に値する。
第三に、バルメン宣言は読者層が限定されていた。インターネットが普及する以前に、教会の指導者たちによって指導者たちのために書かれた。それは組織的な場で読まれ、影響力を持った。
今日、公開書簡や署名入りの宣言文はネット上にあふれている。その署名者は、何ほどの権威もなく、組織としての説明責任も問われない。そんな文章ばかりが人目を引くことを競い合っているネット上に声明を出しても、注目される訳がない。ネットという表現手段は、声明が持つメッセージにそぐわないのだ。
宣言を出すだけでは変革は達成されない
これらの違いはまた、現代の声明文の有用性が非常に限られていることを明らかにしている。それはバルメン宣言がその時代に意味したことと、新しい宣言が今日意味することの違いを示している。
現在、教会が大きな課題に直面していないわけではない。最近では、教会の非課税資格への挑戦、政府当局が定義した宗教教育要件、難民再定住の道の閉鎖、行政府による教会生活への行き過ぎた介入など、私たちが反対する価値のある多くの政府政策がある。
しかし、2025年にインターネットへの投稿で何が達成できるかについては、現実的であるべきだ。アメリカの福音派の文脈では、ネット宣言は届いたときには死んでいる。
バルメン宣言のようなものを定着させるには、優れた文章や堂々たる署名者以上のものが必要だ。危機に瀕している神学的確信にレーザーのように焦点を当て、予算やカリキュラムを決定し、牧会訓練プログラムにおいてそれらの確信を強制することができる、相互に結びついた組織的・教会的生活が必要である。
2025年のアメリカ福音主義は、この世の生活と神の国の生活との間の矛盾を考察し、神学的に論述する能力を備えている。しかし、私たちの組織、教会的権威、ネットワークは、衰退しているとは言わないまでも、いたるところで脆弱(ぜいじゃく)である。
だからと言って、私たちがなすべきは絶望ではない。回復である。まずは、脆弱となった制度を、個々の教会から再構築することに尽力しなければならない。バルメン宣言を正しく思い起こすことは、その神学的ビジョンが、明確かつ挑発的でありながら、宣言だけでは変革はもたらされないという冷静な認識と対になっていたことを私たちに気づかせてくれる。組織的な支援と献身的な個々の教会の弟子たちのネットワークがなければ、バルメン宣言はうるさいシンバルに過ぎなかっただろう。
権力に真理を語る教会を再建する時
アメリカの福音派は、そのような制度と弟子としての堅固な基盤を必要としている。宣言は、ただ語るだけではなく、忠実に祈り、宣言が求める世界のためにひたすら働く共同体から発信されてこそ、権力に対して真理を語る意味を持つのである。今こそ、見知らぬ人々を歓迎し、飢えた人々に食事を与え、福音を宣べ伝えることのできる教会を再建する時である。しかし、その道は険しく、どんなに明確な呼びかけがあったとしても、近道はない。
(2025年05月11・18日号 10面掲載記事)