《ペンテコステメッセージ》話さないわけにはいきません
富浦 信幸(関西聖書学院 舎監)
十字架と復活の証拠でありたい
そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「…この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4・8、12)
ペンテコステおめでとうございます。
イエス様が天に上って行かれる前、弟子たちに一つの約束を言い残していかれました。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(使徒1・8)
ペンテコステは教会の誕生日と言われますが、このみことばによるなら弟子たちが〝キリストの証人とされた日〟とも言うことができます。
聖霊に満たされたペテロとヨハネが、福音を大胆に語ったゆえに捕らえられる場面が使徒の働き4章に記されています。二人は留置場で尋問を受けます。目の前にいたのは、民の指導者や長老たちに加え、大祭司アンナスとカヤパ、そして大祭司の一族もみな出席した、とあります。そうそうたるメンバーです。ペテロは、その真ん中に立たされます。捕まることを恐れ、イエス様を3度も否定したあのペテロです。しかし聖霊に満たされたペテロは、彼らの前で大胆に福音を語ります。
「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4・12)
大祭司アンナスとカヤパと言えば、イエス様が十字架を前に裁判を受けた時、尋問した人物です。ルカの福音書を見ると、こう記されています。「彼らはみな言った。『では、おまえは神の子なのか。』イエスは彼らに答えられた。『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです』」(ルカ22・70)
〝わたしはそれです〟。このイエス様の言葉は、奇しくも同じ大祭司の前で大胆に語ったペテロの言葉と重なってきます。まさに、キリストの証人としての〝証言〟でした。
証人とはどういう人のことでしょうか。この尋問の最後にペテロはこう言った。「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒4・20)
証人とは、〝見た人〟〝聞いた人〟のことです。経験済みということ。ペテロをはじめ弟子たちは、注がれた聖霊によって霊の目が開かれ、イエス様の十字架と復活が本当の意味で彼らの〝経験〟となっていきました。同じように、私たちもイエス様の十字架の死と葬り、そして復活が聖霊によって〝経験〟へと導かれていくと信じます。
十字架の福音は、キリスト教の単なる教理ではありません。シンボルでもない。十字架の福音は、〝いのち〟です。「この方以外に救いはない」とは、「この方だけにいのちがある」ということ。私たちはこの〝いのち〟に生きる者であり、〝いのちの証人〟とされているのです。
福音とは、良き知らせです。〝知らせ〟とは、知らせてはじめて知らせになる。同じように証人とは、誰かに証言してはじめて、証人となるのです。
ペンテコステを迎え、私たちは証人となるべく、新たな聖霊の満たしを求めていきましょう。いのちなるお方にどっぷり浸からせていただきましょう。十字架と復活を経験し、福音に感動し、キリストを生きる者でありたい。私自身が十字架と復活の証拠でありたい。心からそう願う者です。
闇がますます濃くなってきた時代にあって、私たちは〝見たこと、聞いたことを話さないわけにはいきません〟。「この方以外に救いはない」と、大胆に証言せねばなりません。福音を待っている人のところへ何としても届けなればなりません。キリストの証人になるべく聖霊の油注ぎがおひとりおひとりの上に豊かに注がれますように。地の果てまで福音が届きますように。
(2025年06月08・15日号 01面掲載記事)