私は作家として30年間活動してきました。言葉を扱うということは一筋縄ではいかず、常に私の手をすり抜けていく言葉を、願わくば最もふさわしい言葉を捕まえようと、網を持って追い掛け回していたようなものです。言葉がつくり出す作品はとても脆いものです。画家が使う色や、彫刻家が使う3次元の空間に比べて、言葉は五感に直接訴えるものではなく、識字能力があって初めて体験できるものです。しかし、一度それを体得すれば、自分とは異なる他者とつながる回路を見出すことができるのです。そして、時としてそれは時空をも超えます。
レバノンを旅した時、一人の婦人に出会いました。彼女は第5次中東戦争の時、私の著書『神に失望した時』を防空壕の中で、ローソクの灯を頼りに読んだと言います。爆撃で街が崩壊しようとする最中、私がシカゴのアパートで書いた言葉が、彼女に何がしかの慰めをもたらしたと聞いた時、言葉にできないほど厳粛な思いにさせられました。
神様はご自身の本質を私たちに示されたとき、それを言葉、ロゴスと呼びました。その言葉は考えうる限り最も自由で栄誉ある方法でやって来ました。だからこそ、神様は私たちにも言葉をもって語りかけるのです。見える形でその姿を現すことなどほとんどなく、偶像やイメージの中に現れることなど決してありません。
目に見えるイメージはあまりにも強烈です。一方、書かれた言葉は、それを読む者との間に十分な距離を生み出し、その言葉が何を言わんとするのか、言わばその入口を観察する余裕を読者に与えます。もちろん私たちはイメージだらけの世の中に生きています。至る所に音と映像はあふれかえり、数秒ごとに切り替わる画面に私たちは振り回されています。しかし、書かれたものを読む時、読者はそのペースや、頁を繰る早さも自由ですし、立ち止まってしばし考えることもできます。読みたくなければ頁を閉じればいいのです。
私の書くものは、すべての人に受け入れられるわけではありません。ある人には慰めとなり、ある人には傷みとなります。誰であれ、ものを書くときにはその人の色があり、その色の中でしか書くことができないからです。それはその人に与えられた賜物であるとも言えます。私たちは、神様に似せて創造されました。神様は私たちに投資してくださったのです。私たちにできることは、その投資に対するほんのわずかの利子をお返しすることだけです。一人一人に与えられた賜物をきちんと用い、私たちが表現する言葉が持つ、驚くべき力を正しく管理することが私たちには求められているのです。
クリスチャン新聞創刊50周年、主に感謝いたします。変動の多いこの世の中で、受け取る人の見解は異なっても、主は生きておられること、裁きではなく愛と赦しの神であることを、伝えていっていただきたい。それこそ、人々が真に求めているものではないでしょうか。
