5月3日から5日まで、東京・台東区東上野の上野の森キリスト教会で開かれた「ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー」(同事務局主催)で、リージェントカレッジ初代学長のジェームズ・フーストン氏が「キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜」をテーマに6回の講義を行った。3日目の最後の講演から。
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日本の四季、クリスマスの光景について話したフーストン氏は、続いて復活、昇天、聖霊降臨について語った。
「ユダヤ人は毎週安息日のために備え、安息を厳かに祝うことが年間を通して重要な意味を持つものだった。そのユダヤ人に対し、ヨハネス・クリュソストモスという教父は、私たちクリスチャンは、聖なる主の復活を記念する日曜日を、ユダヤ人が安息日を重視したように重要視したと語る。一方、クリスチャンたちはその日曜日を本当に敬虔に祝ってはいないと批判を述べている。クリュソストモスのクリスチャンに対する批判は、現代にも通じるものがある」

「キリストが復活された日を記念し祝うことは、私たちには新しい生き方があることを意味する」と言う。「遠藤周作は、『イエスの生涯』の中で『もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく(中略)、私たちは、すべての人の中でいちばん哀れな者です』(Ⅰコリント15・17〜19)の御言葉を引用し、この絶対的な自信、動くことのない確信は、何より私たちを圧倒すると言う。だが、遠藤自身は復活ということを受け入れてはいない。弟子たちが持っていた自信、確信は遠藤にはなかった。人間の理性、頭では信じられるものではないからこれは作り話、フィクションだと遠藤は考えた」
しかし、初期のキリスト者にとっては、復活はすべてのものを真っ逆さまにひっくり返すものだったと強調する。「異邦人の社会において、クリスチャンが証しする復活は、スキャンダル以外の何ものでもなかった。すべての宗教、宇宙、その前提が消えてしまって、復活の中で新しい現実になった。復活は人間と人間の関係が、神と人間との関係に変わった。私たちはこの復活の現実に生きていないのではないか」
キリストの昇天に関しても、クリスチャンはあまり語ることがない、重要視していないと指摘する。だが、フーストン氏は「昇天がなければ聖霊降臨もなかった。昇天と聖霊降臨は、深く結びついており、切り離すことができない」と言う。「昇天を目撃したのは、非常に限られた弟子たちだけだった。イエスは自分の身体に残っている十字架刑の傷を見せられた。あの疑い深いトマスも、イエスの手と脇腹の傷を見て、主であると信じた。イエスの復活と昇天に関しては、私たちそれぞれが独自に、私的にイエスの現れを経験している。イエスの身体がこの地上からいなくなったが、今度は弟子たちに聖霊が下った。イエスの身体はないけれどもイエスを証しする聖霊が私たちと共にいる。それぞれが自分の言葉でその宣言を聞く。一体、どのくらいの言語があっただろう。それは心の言語であり、あなた、私たちだけが聞く、心の言語だ」
この聖霊の働きにより、私たちは今、この地上に信徒たちとの交わりである教会を持っているとフーストン氏。「このイエスの神秘については、キリスト教界の歴史の中で多くの論争があった。しかし、私たちはみな、ある意味死から出ている。私たちは、本当なら持っていなければならない、聖なる信仰の暦を持っていないのではないか」
「私たちは誰もが、どこのシーズンに当てはまっているかは違うけれども、自分と主との経験を手紙に書くことができる。今日、みな疲れている。イエス様が私たちの魂の深いところをかき混ぜておられるからだ。深い魂の場所は生涯かけて探索すべき場所だ。ここから毎日、イエス様と会うことができる。そして、すべての聖徒の交わりにおいて、主を祝福し祝うことができる。共に祝う人々の中には、初代教会で殉教していった人たち、日本で殉教していった人たちも一緒だ。日曜日ごとに主を祝う祝い方が違ったものになるようにと祈りたい。生涯にわたって変えていただきたい」と結んだ。
(おわり)【中田 朗】
