対話の新しい回路つくる
シアターコモンズ’20の二つ目のトークイベント「芸術と公共」を見てみよう。アーティストの卯城竜太氏(Chim↑Pomメンバー)は、「オリンピック、新型コロナは別々の問題ではない。大きな物語に個が回収されている」と指摘。「オリンピックや様々な都市開発で『公共性』が言われるがトップダウンが多い。対象は抵抗することのないマイルドな消費者。ホームレスやアクティビストなどは排除されています」
あいちトリエンナーレ2019(以下あいトリ19)のクレームにも言及。
「ボトムアップな個が介入したように見える。だがその内容はみなコピペ(切り貼り)。個人としての言葉ではない。みな公共性を読み合っている。美術界でも『一般の人が不快になる』を理由に展示が制限されてきた。『一般人』を理由に正義感で検閲ができてしまう。『一般』をみな探っている」と公共性を忖度(そんたく)し合う状況を述べた。
一方「アーティストは、スラムから富裕層までかかわる。美術の文脈が分からない人とも、やり方を変えて対話できる。行政にはできないバイブス(雰囲気づくり)がある」と語った。
数々の国際芸術祭を手掛けたアートディレクターの北川フラム氏は、あいトリ19の展示や対応を評価しつつ、冷戦終結後の「戦前の勢力」拡大、などの時代認識を示し、「表現の自由以前にあらゆることが相対化される問題がある。敵は日常生活の仕組みの中にいる。今後仕事ができなくなる喫迫した状況がある。言葉で巻き取られないように『潜る』必要がある。美術は、言葉でひっかけられない強さがあるはず」と話した。
文化政策に詳しい若林朋子(プロジェクト・コーディネーター)は、「文化政策は、官だけではなく民も当事者」と強調。「あいトリ19の問題で行政や企業、アーティストの自粛が懸念される一方、補助金や表現の自由への関心が広がった」と述べた。
フラム氏の芸術祭モデルについて、「対話の回路をつくり、それが自走する、地域の新しい公共圏を生んだ」と評価した。フラム氏は、国に頼らない足場を重視し、地元住民と関わる。「自分の反対者を味方につけると強い」と話した。
卯城氏は、「分断の中でも、面白いものを創造する可能性はある」とアーティストの創造性を主張。ある国では表現が難しい作品を他の国で展示する、といった国際的な連携の可能性を東アジアを例に挙げて期待した。
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キリスト教でも「公共」がテーマにされてきた。『聖書と政治』(リチャード・ボウカム著、岡山英雄著、いのちのことば社、2017=写真①=)では、「さまざまな方法で公共的な世界に関わりつつ、神の国を求めることができる」、「キリスト者は、特定の目的や価値を共有できるなら、恐れることなく他者と協力すべき」と公共への関与を勧める。
一方、「新約のキリスト者共同体の原則を教会から政治的社会へと広げるには、その相違を十分に説明しなければならない」と「違い」にも注意を払う。
本連載後半では、最近出版された次の3冊を軸に関連する議論を整理し、応答していくことになるだろう。

『公共性主義とは何か 〈である〉哲学から〈する〉哲学へ』(小川仁志著、教育評論社、2019=写真②=)は、従来の公共哲学からさらに実践、行動へと重心を移した「公共性主義」を主張する。そのとき、モデルにするのは、マーティン・ルーサー・キング牧師の実践に連なる「預言的プラグマティズム」だ。

『神の国と世界の回復:キリスト教の公共的使命』(教文館、2019=写真③=)は公共哲学をキリスト教、宗教の視点で福祉実践とともに推し進めてきた稲垣久和氏の編著。
これらが公共への関与を推進するのに対し、『政治神学の想像力 政治的実践としての典礼のために』(ウィリアム・T・キャヴァノー著、東方敬信、田上雅徳共訳 新教出版社、2020=写真④=)はより慎重だ。

「国家」も、「公共」も、「グローバリズム」も想像力に関するものだとして、それらを超越するキリスト教的想像力を強調する。ただし社会や公共に無関心なのではなく、従来の政治学を学んだ上で、異なる政治的想像力(政治のアート)を発揮することを重視している。
公共に翻弄されつつも挑戦するという点では芸術と宗教、キリスト教には重なる面がある。ただし宗教には価値と目的があり、芸術それ自体は価値と目的を限定しない。実践の面で芸術はかかわる。そのときの芸術は、美術品を鑑賞したり、読み解くだけではなく、より広い意味のアート、真理への自由のための技術(リベラル・アーツ)ということになるだろう。
これらの具体的な論点を見る前に、次回は「芸術と仮想性」のテーマを経由したい。これも社会、公共性と関わっている。(つづく)【高橋良知】

