第3回:教会実務における基準

教会実務における基準

河野 優 石神井福音教会協力教師、前日本同盟基督教団法人事務主事

 教会実務の現場において「そのようなやり方では世間に通用しない」「社会に対する証しにならない」などといった声を聞くことがある。教会の実務能力や事務処理の内容を世間一般のそれと比較するとき、教会の方が劣っていたり、弱さや甘さがあったりする部分があることも多いと思われる。そのため、このように言われることも仕方のないことかもしれない。

 法令遵守(コンプライアンス)という言葉が盛んに言われるようになって久しいが、私たち教会も地上での歩みにおいては当然、置かれた場所での様々なルールに従って歩む必要がある。例えば教職者の謝儀や福利厚生の処理などの会計処理では、経理や税務、社会保険手続き等の定められたルールに則って対応しなければならないことも多い。そのため、教会が社会のルールに無関心でいると、社会に対して証しにならないということは妥当なこととも言える。

「証しになる・ならない」

 こういった課題に対しては、実務に長(た)けた信徒や外部の専門家を立て、実務能力の向上やコンプライアンスの徹底を図ることになるだろう。そのような取り組み自体は少しも否定されるものではなく、むしろ団体運営においては必要で推奨されることでもある。私自身、宗教法人の管理運営や教会の不動産取引等に関わる中で、関連する法令や各種手続きに関する正確な理解と対応の必要に迫られ、資格取得や研修等によって知見を広げ深めてきたし、それらは実務において大いに用いられている。

 しかし、「教会」の実務においては以上のような事柄が整えられるだけでは不十分である。教会実務が世のルールに従って適正に管理され、世間一般と遜色ないレベルでなされているからといって、それだけをもって「証しになっている」とは言い切れない。なぜなら、もしそのように言い切ることができるならば、証し云々(うんぬん)と言いながらもその実態は「社会の基準に適合しているかどうか」を判断しているに過ぎないからである。

 冒頭の声については、何気なくあるいは無意識に語られ、聞かれていることであると思うが、ここには「キリストをかしらとする教会」が教会として歩み続けるために必要かつ重要なポイントが示されている。それは教会実務においても「キリストが主である」ということである。教会実務が社会に対する証しになっているかどうかを判断する基準は、世間に通用するか否かではなく、主のみこころにかなっているかどうか、主の前にふさわしく歩めているかどうかにある。

 私たちはしばしば無意識のうちにこの基準を主以外のものに置いてしまうのである。一つ一つは些細(ささい)なことであっても、そのことに気づかず繰り返すうちに、いつの間にかその働きの基準が世に置き換わってしまうのである。教会実務の働きは専門的な能力や作業を必要とすることも多いため、このような事態に陥りやすいことを私たちは覚えなければならない。

 私たちは日々新たにされ、「神のみこころはなにか、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ122節)と教えられているとおり、信仰によって吟味する必要がある。そうして無批判に世の基準に「合わせる」のではなく、十分にそれを「考慮」したうえでどのように対応することが神と人の前にふさわしいのかを教会として判断し、実行するのである。そうしてこそ「神と人の前に証しになっている」と確信をもって言うことができるのである。

 今回はいささか抽象的なものとなってしまったが、法令に基づく行政手続きや様々な取引などの実務において、教会は鋭くその在り方を問われていくことになる。実際の教会が直面する個別具体的な事例については今後取り扱う予定である。(次回は73日号に掲載)

《連載》教会実務を考える