
何より、戦後80年を迎えるこのタイミングで「平和の教会に生きる教会の宣言」(以下「平和宣言」)を公表された日本キリスト改革派教会(以下「改革派教会」)の姿勢に敬意と感謝の意を表明します。
とりわけウクライナ戦争やパレスチナ・イスラエル戦争の終結が見えない時代にあって、この「平和宣言」の意義は大きいと言えます。
しかもこれが、緊急事態に応じた付け焼き刃的なものではなく、過去の戦争とその後の歩みを振り返り、聖書に徹底して耳を傾け、現代世界の抱える課題を広く見渡した上で、真の平和(シャローム)の深みと広がりを明らかにしている点に大きな価値を見いだすのです。
時代は「軍事力」や「防衛力」を求めます。とくにロシアのウクライナ侵略や中国による台湾の脅威などを考えると、その思いはいっそう強くなり、平和を求めるキリスト者の中からも「防衛力のために兵器の所有はやむなし」という声が聞こえてきます。いまや国際関係の場においては、ある程度の軍事力を持たなければ、一国家としての意見や主張さえも聞いてもらえないとも言われます。「対話」や「話し合い」の前提条件としても軍事力が必要だという論理になってきています。
このような現実の中で、どういう具体的な対応を取るかはきわめて重要です。しかし現実への対応から目指す平和の構築が、ことごとく平和から遠ざかる結果となり、なし崩し的にさらなる戦争準備に使われてきた歴史も私たちは忘れてはいけません。
「平和宣言」は、そのような歴史を踏まえています。しかも創立以来、一貫して戦時下の教会の罪を告白し、「有神的人生観乃至(ないし)世界観」に基づく宣教と教会形成に励んできた改革派教会が、自分たちの歩みを「平和の福音に生きる教会としての使命に応える力も熱心さも乏しく」、「教会内外において社会的・民族的な差別を受けている人々に対する共感や認識も真に不十分であった」と認めて、主の赦しを乞いつつ、改めて平和の構築を誓っています。
この宣言では、「神の平和」と「この世の平和」を同一視することができないとしつつ、両者を切り離すこともできないとします。その上で、「この世においては、いかなる戦争も、神の前に罪を免れることはできない」とし、「聖書における古代世界の戦争記述」に関しても、それを通して神が究極的に教えていることは、「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26・52)という真理であって、民が武力ではなく主に信頼するようになることだと断言します。
世に平和の主張はあふれていますし、平和を希求しない人はいません。しかしどのような平和を、どのような手段で求めるかが重要です。ここには、現実の脅威や時代的な要請に妥協しがちな私たちに対して、神の平和が何であるかが明らかにされています。そして今の世界の現実をよく見つめた上で、それをどう求めて実現すべきかが宣言されています。諸教会とそこに属する信仰者一人一人は、この宣言から学びつつ、ここに明らかにされた聖書的真理に堅く立つ信仰が求められているように思います。
評・青木義紀=日本同盟基督教団 和泉福音教会牧師、東京基督教大学非常勤講師、(宗)聖書宣教会 聖書神学舎講師
(2025年05月04日号 04面掲載記事)
