
教会学校の現場において複雑な背景や発達特性を抱えた子がやってくることは珍しくない。「子どもたちに神様の愛を届けたい」と、どのスタッフも願っている。しかし、著者の言うところの「ちょっと困った行動をする子」は確かに存在する。最も愛が必要な子にこそ、それが難しく感じられてしまうのである。
教会学校スタッフは、専門的な支援機関とも一般の学校とも異なる教会という文脈において、子どもの育ちに寄り添う隣人とならなければならない。それは具体的にどのような営みとして体現されるのか? そのことを、現場経験者だからこそ通じる臨場感溢(あふ)れる文章で学ぶことのできる一冊である。
新改訳2017において「幼子」と訳されている単語は原文では「ネーピオス」という。これは「言葉を持たない者」という意味である。子どもは大人のように流暢(りゅうちょう)に言葉を話すことができない。だからこそ、子どもの行動、立ち居振る舞い、その全身から発せられる呼びかけを、一つの「コトバ」として、メッセージとして受け止める必要がある。子どもの「コトバ」を読み解くために必要なのは、「その子の世界」(85頁)を知ろうとする姿勢である。
著者は言う。「『困った行動』には何らかの理由があるのです。その理由がわからないとき、私たちは『困った子』と思いがちですが、その理由がわかると、行動とその子自身を切り離してみられるようになります」(54頁)。本書の白眉は後半の「ちょっと困った行動をする子との関わり」である。子どもの行動を大人目線のフィルターで安易に受け取らず、その子自身の育ちの背景やニーズから理解しようとすること。「理解(understand)」という英単語が示しているように、「相手の目線に降り立つ」こと。その大切さを本書はよく教えてくれる。それはイエスが幼子として生まれてくださったこと、つまり人間の目線に降り立ってくださったことにも通じる構えである。
パウロは「使徒として権威を主張することもでき」たが、あえて「幼子」になったと言う。その理由は「子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思」うからである(テサロニケ人への手紙第一 2・7~8)。「子どもと育ちあう」ためには、まず私たちが「権威」を闇雲に押し付けず、幼子の目線に立つ必要がある。「使える」実践論としての性質を保ちつつも、聖書の精神に深く通じる部分を、読者は多く見つけることができるだろう。
(評・坂岡大路=公認心理士・臨床心理士)
『子どもと育ちあうために「どうしよう?」と悩むときのヒント』村上純子著、
日本キリスト教団出版局、1,650円税込、四六判
