「スピリチュアル・フォーメーション(霊的形成)」がブームになっている。だがその中で、たいせつな本質が見失われていくのではないか?|そんな恐れを、霊的形成運動の源流のひとりダラス・ウィラード氏は抱いていた。氏の元助手のジェームズ・ブライアン・スミス氏のそんな論考が、本紙と記事提携する米福音派誌「クリスチャニティトゥデイ」に掲載された。

 

記=ジェームズ・ブライアン・スミス
クリスチャニティトゥデイ 2022年8月22日

 

 

青年の頃、私はキリスト教の霊的形成運動の高まりを目撃する特権にあずかった。

この運動が現代の形で始まったのは1978年、リチャード・フォスター氏の著書が出た時だ。『Celebration of Discipline(邦題=スピリチュアリティ 成長への道)』は、今日まで長年にわたり、霊的訓練の標準テキストとなっている。出版から数年も経つと、それまで一度も独りでいること、静まり、黙想など聞いたこともなかったクリスチャンたちが、こうした訓練を実践するようになっていた。

すばらしいことがたくさん起こっていた。しかし、フォスター氏は、多くのクリスチャンが訓練を一人で実践しているのを見て、もう少し導きが必要だと考えた。そこで1988年、彼はダラス・ウィラード氏と私を含む数名に協力を求め、レノヴァーレ(ラテン語で「刷新する」)という霊的形成ミニストリーを設立した。

ウィラード氏は、南カリフォルニア大学で哲学学部教授を40年間務め、福音派とプロテスタント主流派の霊的形成運動において最も重要な先駆者の一人だった。彼はフォスター氏の親しい友人で、それどころか、ウィラード氏はそもそもフォスター氏に霊的訓練について教えた人物だった。もちろん、霊的訓練自体は古代教会にその根を持ち、何も目新しいものではなかったのだが。

初期の頃、私たちは大きな抵抗にあった。福音派の中には、霊的形成に関する私たちの教えは危険で、悪魔の業だと確信している人もあった。私たちが小規模な集会をすると、会場の外には「ニューエイジの異端に気をつけろ」などと書かれたプラカードを手にした人々が集まってきた。それでも、この運動は成長していった。

長年の親交の間に、フォスター氏はウィラード氏に、クリスチャン形成についての本を書くよう勧めた。そしてウィラード氏はやがて、多数の影響力ある本を著した。『The Spirit of the Disciplines(訓練のスピリット)』、『Renovation of the Heart(邦題=心の刷新を求めて)』、そして彼の代表作『The Divine Conspiracy(神の陰謀)』などがそれだ。

 

私たちはまるっきり的外れなのか
「なぜ」ではなく「どう」するかに?

 

他にも多くの人々が同じような仕事をした。ユージン・ピーターソン氏の著作はベストセラーとなった。カトリックの黙想家であるトマス・マートンやヘンリ・ナウエンの本を、長老教会やメソジスト、ひいては一部のバプテストのクリスチャンまでもが持ち歩くようになった。ジェームズ・フーストン氏は、彼の本拠地であるリージェント・カレッジから学術的な根拠を提供した。

1992年、ウィラード氏はフラー神学校牧会学博士課程において、いちばん人気を博する授業を教え始めた。「霊性とミニストリー」という題のこの授業は、あまりに人気が高まったため、フラー神学校は私を雇い、ウィラード氏の助手を務めさせた。私は10年近く、その役割を務めた。

2005年にレノヴァーレ国際会議をデンバーで開催したところ、2千500人余りが参加した。会場ホールに足を踏み入れた時、私は圧倒される思いがした。私はフォスター氏の方を向いて、こう言った。「何かが変わったよ。私たちは20年足らず前にはデモ隊のプラカードに囲まれていたのに、人気者になったものだ」

まさにその通りだった。何かが変わっていた。

まもなく、ますます多くの牧師や信徒が霊的形成の本を読むようになった。他にも霊的形成のミニストリーが設立された。キリスト教出版社は、自社が重点を置く霊的形成分野について、書籍シリーズや出版社を立ち上げた。大学や神学校は、霊的形成についての大学院課程を提供し始めた。

牧師の肩書さえ変化し始めたことに気づいた。「キリスト教教育担当牧師」や「弟子訓練担当牧師」に代わって、教会スタッフの中に「霊的形成担当牧師」のような肩書が増えていった。

だが私自身は、その年月の間に他のことにも気づいた。ウィラード氏はこの運動の将来について、深刻な懸念を口にするようになったのだ。

預言的な恐れ

ウィラード氏が召される2013年までの間、私は何度も彼と、霊的形成運動の高まりについて話し合った。ウィラード氏は私にこう言った。「人々が霊的形成に関心を持つようになったのはうれしい。これは、教会の中に切実な飢え渇きと必要があるというしるしだ」

しかし、彼には心配もあった。霊的訓練自体の実践に重点が置かれて、その訓練の結果として意図されている事柄がないがしろにされるのではないか。ウィラード氏は、そうなれば自然に、テクニックが注目される事態に成り下がるだろうと感じていた。つまり、霊的実践を「なぜ」するかではなく、「どう」するかが注目されるようになる。

ウィラード氏には他にも恐れていたことがあった。教会は教会成長のためのツールとして、霊的形成に関心を持つことを選択するようになる。そして、霊的形成はおそらく数的成長にはつながらないので、教会リーダーは霊的形成をやがて教会の数々の部門の一つに降格させ、宣教にとって中心的なものとは考えなくなってしまうのではないか。

最後にもう一つ、ウィラードはこうも懸念していた。霊的形成ミニストリーの数は増えたとしても、それぞれの働きの正当性を証明して生き残るために、互いに協力せずに競合するようになるのではないか。

私はこれらの懸念について10年近く思い巡らしてきたが、今、ウィラード氏は預言的であったと確信するに至っている。今日、霊的訓練をほとんど一人きりで実践することが非常に強調されている。毎週のように、私はクリスチャン形成についての新刊本を受け取るが、そのほぼ全部が、何らかの特定の実践法についての本だ。

たとえば、ペースを落とす、独りでいる、IT断食、エニアグラムを使う、感謝の日記をつける、生活ルールを作る、などなど。それらの本は、特定の手法をどのように行うかに細心の注意を払い、その手法の明らかな便益を擁護するが、もっと深いレベルにある「なぜ」行うかについて、読者が真に理解したり、探求したりするのを助けることは、往々にしてなおざりにしている。

クリスチャン新聞web版掲載記事)