第15回:デクノボーと共感共苦

他者の苦悩に共感し「涙を流す」ことこそ

木原 活信 同志社大学社会学部教授

 

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な詩は、コンパッション(共感共苦)の典型的な例である。実は、この詩は、賢治の死後に発見された手帳に残されていた謎の詩である。彼の宗教世界とのつながりとして記されていたその詩の後半では、「日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい」(原文は漢字カタカナ表記、以下同)と書かれている。

「デクノボー(木偶坊)」とは大きいだけで「役立たずの人形」という意味であるが、賢治は「そういうものになりたい」とまで言うのである。不思議な発言である。普通は理想の人物像は、偉い人、強い人であろうが、賢治の理想の境地は、「日照りの時は涙を流し」「寒さの夏はおろおろ歩く」ことしかできない「デクノボー」だというのである。しかし、何もできずに「おろおろ歩く」だけであっても、真心から他者の苦悩に寄り添う、共感し「涙を流す」そんな態度こそが、実は本当の慰めとなるのかもしれない。

実は、この詩のモチーフは、異説もあるが斎藤宗次郎というクリスチャンであったと言う説が有力である(雑賀信行『宮沢賢治とクリスチャン』(雑賀編集工房2015)。斎藤は内村鑑三の弟子で、信仰を貫いたため迫害され、教師を失職し、不遇な生涯を送っていたが、宮沢とは同郷で二人は互いに尊敬し合い深い交流があった。斎藤は、弱き者に寄り添う姿などから「花巻のトルストイ」と言われた半面、あまり信仰に熱心なあまり、「耶蘇(やそ)狂い」と蔑まれ迫害されたりもした。正義感が強く、堅物で不器用な性格から「変人」扱いされ、「ウドの大木」(デクノボー)と言われるような面もあったが、常に他者の苦しみに汗を流し、涙する人であったという。

賢治が詩の中で、「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い」というが、これは生前の斎藤の実際の姿と重なると言われ、常に困窮する者に与え尽くす斎藤を心底尊敬し慕っていたようである。

現代は、力や強さが求められ、弱さは嫌がられる。このような強さへのまなざしは、「デクノボー」的生き方の対極である。一見すると役立たずに見えるデクノボー的な人が本当の慰めを与えるという逆説がある。確かに、潔癖な人よりは、隙がありそうで弱そうな人のほうが近寄りやすく、いざという時助けてくれることが多い。「日照りの時は涙を流し」「寒さの夏はおろおろ歩く」しかないデクノボーのような人が、実は本当は頼れることが多い。しかし今、このような人に出会うことは稀(まれ)である。

斉藤が生涯において求め続けたのが、師である内村鑑三を通して知らされたナザレのイエスであった。しかしそれは英雄というよりは、「悲しみの人で病を知っている」イエスであった。そのイエスは、「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53章3節)と言われる「苦難の僕」であった。逆説的であるが、このイエスこそが傷ついた人を癒やし、その病を負うことができたのである。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。(中略)すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4章15、16節)。

イエスこそが、私たちの弱さに同情できない方ではなく、共感共苦の涙で寄り添ってくださる方であるのなら、我々も弱さを認めて、「大胆に恵みの御座に近づ」きたいものである。

《連載》コンパッション 共感共苦 ― 福祉の視点から