境界線―近すぎない側面的な支援を
木原 活信 同志社大学社会学部教授
コンパッション(共感共苦)は他者の痛み、苦しみ、悲しみへの強い共感の感情であり、その連帯である。
ところで、十字架を目の前にしてイエスは、ゲツセマネでの祈りの時、側近であったペテロ、ヨハネ、ヤコブを伴われたと記録されている。マルコの福音書の描写は以下の通りである。「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。』そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」(14・32~34)(傍線は筆者による)
「悲しみのあまり死ぬほど」という苦しみは、私たち人間には到底理解できない神聖な面があるとはいえ、この時イエスは、弟子たちに、自分の近く(「石を投げて届くほどのところ」(ルカ22・41)にいて「座って」「目を覚まして」いて欲しいとリクエストをされた。変貌の山、死人のよみがえりの奇跡の時も同じ3人を同伴されたが、それは証言者としての役割、また弟子の訓練としての霊的指導という目的があったのではないかと思われる。
しかし今回は違う。イエスの弟子たちへの願いとは、傍で「目を覚まして」「座って」いて欲しいということである。それは苦しみを共に分かち合って欲しい、つまり自分の苦悩にコンパッションして欲しいということになる。確かに私たちは、苦しい時、悲しい時、辛い時、誰かに一緒に居て欲しいと願うものである。たとえ、何もしてくれなくても、誰かが傍にいるだけで気持ちが全然違う。
ただし、イエスは傍にいて欲しいと願ったのであるが、間近という極至近距離ではなく、逆に遠く離れてというのでもなく、「石を投げて届くほどの」微妙な距離を選択された。これは何を意味するのか。一つには父なる神との深い嘆きと苦しみの祈りの葛藤には、たとえ親しい弟子であっても立ち入れない領域があるということであろう。もう一方で、コンパッションもただ近ければよいということではなく、それにはときに適度な距離が必要である。他者の激しい苦しみと傷には、あまりに(心理的に)近過ぎると共感する側のほうが「火傷して」しまい、逆に傷を舐め合った結果、共に溺れてしまう、という関係に陥ってしまうことさえある。その意味では適切な距離感が必要である。よく言われる人間関係のバウンダリー(境界線)が必要となる。苦しむ者が神に近く祈ることができるために、支援者は側面的支援をすることが求められているのであろう。それがここでの適切な距離ということになる。苦しみは究極的には他者ではなく、その人でしか負えない面があるという現実も忘れてはならない。
ところで、傍で「目を覚まして」「座って」いて欲しいという願いに対して、弟子たちは、いかなる態度をとったのだろうか。悲しいことに彼らは眠ってしまった。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか」(マルコ14・37)。言ってみれば、イエスの最期の願い、ただ共に居て祈って欲しいという願いも叶えられなかったのである。悲しい現実であるが人間のコンパッションの限界を示している。「霊は燃えていても肉は弱い」ということだろう。
しかし一方で、「御使いが天から現れて、イエスを力づけた」(ルカ22・43)とあるように父なる神は愛する御子へコンパッションをされている。私たち極限的な苦悩(ゲツセマネ体験)においても、神は我らの傍らにいることを忘れてはならない。
