《イースターメッセージ》どうして死人の中に

大竹 護(日本長老教会 四日市キリスト教会牧師)

霊的に死んだ世に いのちの主が

人間とはどのような生き物か。様々な答えがありますが、その一つは「死ぬもの」、「死ぬ存在」です。形あるものは壊れる。命あるものは、必ず死ぬ。死といのちでは、百戦百勝で死が勝利する。人が死ぬのは当然のこと、当たり前のこととして、私たちは生きています。
聖書は「死」について、肉体の死だけでなく、霊的な死があることも教えています。創造主から離れた人間は、肉体が死ぬようになっただけでなく、霊的にも死ぬ存在となった。霊的な死とは、罪の悲惨の中、自分中心に生きることです。悪を考え、実行してしまう。愛すべき人を愛せない。赦したいのに赦せない。怒りや憎しみを手放せない。止めたいと思う悪を止められない。良かれと思うこと、正しいと思うことをしても、結局は自分と周りの人を傷つけながら生きることになる。世界を見る時も、自分自身を見る時も、人間は霊的に死んでいることがよく分かります。
肉体の死という意味でも、霊的な死という意味でも、私たちは死が身近です。死に支配されている世界。死に服従している私たち。

死に支配されているという思いは、イエス様の弟子たちにも強くありました。十字架にかかる前、イエス様はご自身が死ぬことだけでなく、三日目によみがえることを弟子たちに伝えていました。ところが三日目の朝、復活のイエス様に会いに来た者たちは、一人もいなかったのです。弟子たちの多くはキリストの復活など頭になく墓に来ることもなく、墓に来た女性たちは遺体に香料を塗るために来ていました。

死体に会うために来た女性たち。そこで待っていたのは御使いたちでした。まばゆいばかりの衣を来た人、それも二人が近づいてきます。明らかに普通ではない。恐れをなした女性たちは、地面に顔を伏せます。一体何が語られるのか注目の場面。
その最初の言葉は「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」(ルカ24章5節)というものでした。死が当然、死は当たり前と思い込んでいる者たちからすれば、復活などありえないこと。死んだイエスの遺体を墓に捜しに来るのは当然のこと。それ以外に可能性はないのです。
しかし真にイエス・キリストを知る者からすれば、主イエスに会うために墓に来るなど、ナンセンスもナンセンス、非常識の非常識。神の一人子であり、永遠のいのちを持つお方が、死んで終わりなわけがない。ありえない。イエス・キリストが復活しないという、そんな馬鹿げたことになるわけがない。
「命と死であれば、死が必ず勝つなどと、誰が言ったのですか。命が勝つに決まっているでしょう」「この世界は死が支配しているなどと、誰が言ったのですか。命そのものである方が、この世界を支配しているのを知らないのですか」「イエス・キリストを誰だと思っているのですか。この世界はどのようなものだと思っているのですか」。そのような意味を込めて、「あなたがたたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」という言葉を私たちも聞きたいと思います。

身近な人の死を経験し、自分自身も衰えを感じ、肉体の死を身近に感じる私たち。繰り返し、霊的な死を身近に感じ、失望する私たち。その私たちに、神様はいのちである救い主を送って下さいました。
もはや死を当然とする必要はない、死を身近に感じる必要もない、死に服従する必要もない。イエス・キリストを信じる者は、いのちである方とともにいのちが支配する世界へ入れられること、やがて永遠に生きる世界へ入れられることを確信して、イエス様の復活をお祝いしたいと思います。

2025年04月13・20日号 01面掲載記事)