河野 優 石神井福音教会協力教師、前日本同盟基督教団法人事務主事
神の法と世の法 みことばに立った判断を
教会運営において「法令遵守(じゅんしゅ)」の問題は避けて通ることができない。私たち一人ひとりが市民としての権利や義務を負っているように、教会もまたこの地に立てられている以上、各種法令に基づく権利と義務を当然に負っているからである。
しかし、教会における法令遵守の意識は実際のところ、さほど高くないのではないか。恥ずかしながら私自身のことで言えば、宗教法人実務にかかわるまで法令など意識したことはまったくなかった。決して世のルールをないがしろにしているわけではなく、むしろ単に「知らない」「意識していない」のであった。教会はどうか。
教会が施設を所有・管理し、福音宣教に仕えていく中で、基本的な法令知識と仕組みを理解しておくことは重要である。なぜなら、そこにある権利と義務、責任やリスクを把握し、備えることができ、教会の歩みを守ることにつながるからである。また、このことは社会的な信用を得ることにもつながるであろう。
しかし、法令遵守が徹底できていれば、それだけをもって教会運営は適切になされているということができるのだろうか。私たちはこの連載で「教会」実務について考えている。単なる一団体の実務であれば、法令遵守の徹底でかなりの部分で責任は果たされるだろう。しかし、教会における実務である以上、そこでは神の法であるみことばを絶対的な基準として、その運営が適切かどうかさらに問われることになる。
たとえば、ダニエル書6章にあるように、国王以外に祈願する者は罰せられるという法律が作られた場合、教会は法令遵守に徹して従うだろうか。もちろん、従わないだろう。これは極端な例だが、法令遵守をかかげるあまり、教会のあり方をこの世に合わせてしまう危険は常にあることを覚えておく必要がある。
以前、「教会の規則」と「法人の規則」について取り上げたように、神の法の下にこの世の法を置き、意識的に区別しつつ一体的に運営していくことが教会には求められている。教会実務の力が試されるのはこの点にある。法令遵守か、神のことばかの二者択一ではなく、神のことばに堅く立って法令を理解し対応していく、バランスを見極める眼や信仰に基づく決断力が求められる。
また、法令遵守との関連で、様々な行政手続きにかかわる中で感じていることがある。それは、行政職員の対応が絶対的に正しいわけではないということである。私はかつて、行政職員の言うことは100%正しいものと考えていた。そのため、手続きでは言われたことに疑うことなく従っていた。しかし、行政職員は一定期間で様々な部署を担当することが多く、必ずしも専門知識を持ち、宗教法人に精通しているとは限らない。特に宗教法人事務は、それが宗教団体の宗教活動とかかわることもあって、他の法人と比べて特殊な部分が多いと思われる。
そうすると、原則的なルールがあるにもかかわらず、行政も教会も十分に理解できておらず、原則通りの運営がなされていない状況が間々起こり得る。職員をおとしめるものではないが、実際に理解が不十分だったり知らなかったりして、誤った教示を受けたこともある。もちろん、私自身も間違って理解していることや知らないことはたくさんある。だからこそ、行政の判断や指示に対しては、それらが本当に適当なのか、その対応は神の前にふさわしいのかを常に考える必要がある。ただ言われるままに対応するのは、思考を停止することと同じである。
教会実務におけるこのような思考停止は、教会運営の基準を無意識のうちにこの世の基準へと引き寄せ、教会のあり方をこの世に合わせて変えてしまうことになる。自分が仕える教会は法令遵守についてどのように考えているだろうか。

《連載》教会実務を考える