山口で大理石産業を興した伝道者 本間俊平 悩める学徒とともに

伝道者 悩める学徒に光灯す ミニ特別展「本間俊平と中田正一~交流の軌跡~」秋吉台科学博物館

山口県の秋吉で大理石事業を興し、出獄人や不良者らを雇って共に働きつつ更生へと導いたキリスト教伝道者の本間俊平と、その本間を師と仰ぎ、後に国際協力の分野で活躍した中田正一。この二人の交流について紹介するミニ特別展「本間俊平と中田正一~交流の軌跡~」が、美祢市立秋吉台科学博物館(美祢市秋芳町秋吉11237ノ938)で開かれている(7月6日まで開催)。記者は3月に同博物館を訪れ、本間との交流をつづった旧制山口高等学校時代の中田の日記を見せてもらうとともに、同館学芸員たちの案内で本間、中田ゆかりの地を訪ね、その足跡をたどった。【中田 朗】

秋吉台科学博物館の一画に設けられた「本間俊平と中田正一~交流の軌跡~」ミニ特別展コーナー

手紙やハガキの往復書簡など

東京の羽田空港から飛行機で山口宇部空港に行き、そこからバスを乗り継いで秋芳洞バスセンターへ。片道約5時間の道のりだ。飛行機を使ったとは言え、東京から秋吉まではかなり遠い。飛行機も新幹線もない明治大正時代の人たちは、東京からどのくらいの時間、日数をかけて行ったのだろうか、と想像した。
昼前、同館学芸員の藤川将之さんが迎えに来てくれた。藤川さんは地質学、古生物学専門で、秋吉の地質に詳しい。昼食を共にしながら、秋吉は石材として優秀な石灰岩や大理石が採れること、建築材料は美術工芸品として古くから利用されてきたこと、アンモナイトなど様々な化石が発見されていること、日本最大級の鍾乳洞の秋芳洞は戦前から観光地として知られていること、長年の人と自然との営みが秋吉のカルスト台地(雨水や地下水などにより石灰岩が溶食された地形)を形成していること、などを熱く語ってくれた。

午後1時過ぎに博物館に到着。目の前はあちこちに石灰岩が突き出たカルスト台地が広がる。余談だが、「博物館からすぐ近くの、秋吉台の麓付近に伸びる旧街道『赤間ヶ関街道中道筋』は、かつて幕末志士の吉田松陰、久坂玄瑞も通った道です」と教えてくれた。幕末維新の頃に思いをはせた。
博物館2階の一画に、「本間俊平と中田正一~交流の軌跡~」のコーナーはあった。本間が中田やその妻・春野(春野は本間の娘)に宛てた手紙やハガキ、中田の旧制山口高等学校(以下・山高)時代の日記などが展示されている。同館学芸員で、中田の日記や中田が記録した本間の講演録を整理している石田麻里さんはこう話す。「山高時代の日記は全10巻あり、行方不明の第6巻を除く9冊を寄贈していただいています。展示は、初めて秋吉の本間の所に出かける1926(大正15)年頃の日記のみになります」。「本間の所に毎日曜日、足繫く通うようになって以降は、その多くが『本間先生のお話』のメモ」だとも語ってくれた。

中田正一の日記

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さて、なぜ記者がわざわざ秋吉まで足を運んで取材をしようと思ったのか、またなぜ秋吉台科学博物館がこのようなミニ特別展をするようになったのか、お伝えしたい。
実は、中田は記者の伯父にあたる。父の修が今年1月に102歳で亡くなったが、生前、「正一兄さんはキリスト者で、本間俊平という伝道者に傾倒し、その四女を妻にもらっていた」と、よく語っていた。また、修が大学生の時、目黒区鷹番の本間の家(当時は戦時中で本間は秋吉に疎開し、正一が管理していた)に居候していたことも聞いていた。だから、伯父や本間に対して関心を抱いていた。
そんな中、たまたまネットで調べていると、同博物館のミニ特別展のことが目に留まった。「これは自身のファミリーヒストリーをめぐる旅になるのでは」との思いで、秋吉に行くことに。同館職員たちも、中田の甥(おい)ということで、想像以上に歓待してくれたのがうれしかった。

秋吉台科学博物館外観

ちなみに、同館は科学博物館であって、キリスト教など宗教とはあまり関わりはない。他の展示コーナーを見ると、「秋吉台の大理石〝山口更紗(さらさ)〟」「秋吉台カルスト」など、地質的な展示ばかりだ。その中になぜ「本間俊平と中田正一」なのか。藤川さんが説明してくれた。
「数年前、正一さんの息子の保さんから、父・正一の遺品を寄付したい、との申し出があった。鉱山を見て回るツアー参加のためこちらにも来ていただいたが、その時に資料を数箱分寄付していただいた。貴重な資料で取っておくのはもったいない、整理しながら少しずつ発信していこう、と。それが展示を始めたきっかけです」
本間は、地元では秋吉で大理石産業を興した伝説的な人物として、今も知られている。1902(明治35)年、本間は秋吉に移り住み、「長門大理石採掘所」を開設。当時、東京の東宮御所造営局の官職に就いていたが、自分に強い使命を感じ、官職を辞しての移住だった。
採掘所で働く労働者には出所者や非行青年などが少なくなく、本間は彼らと生活を共にしながら労働、礼拝を行い、彼らの更生を促す働きをした。本間の妻が労働者の一人から研ぎ澄まされたノミで切りつけられる事件が起こったが、本間夫妻はその相手を赦し信頼することで、その受難を克服した。やがて「秋吉に本間俊平というすごい人物がいる」とのうわさが地域に広まり、山高の教師や生徒たちも、本間の話を聞きに日曜日の礼拝に行くようになった。その中に正一もいた。
『風─中田正一追悼文集─』(同追悼文集刊行会発行)の中の「わが心の自叙伝」で中田は、「人生に対する言いようもない悩みと不安は日に日につのっていた」と、当時の心境を記している。

偉大な神の計画の一部分を命のつづく限り画そう

山高時代の中田正一の日記を見ると、最初に本間俊平のことが出てくるのが、1926(大正15)年5月9日。「昨夜岡田来たりて、本間俊平氏の所〔秋吉〕へ行く事を約束してあった」とし、4時起床。停車場に行き、山高生徒らと待ち合わせ、一路秋吉へ。途中、同行者も増え、旧制山口高等女学校の教授らも加わった、と記している。

中田正一(中央)
本間俊平

午前10時に秋吉に到着。「家が此(こ)の上もなくおそまつなのには驚かされた。直ちに説教あり。教会の如(ごと)き様なり。然(しか)も亦(また)教会とは全く異なる空気ただよう」(ルビ=筆者、以下同)と、目にした第一印象を記している。
9日後の日記にはこう記す。「此の間、本間先生が云(い)はれた。『如何(いか)なる日に於(おい)ても、明日は天気なりと思へ。絶對(ぜったい)に雨天なりと思ふ事勿(なか)れ』。俺は此の眞理の偉大なるに今更ながらに感じ入った。(中略)俺は一重に神に感謝する。俺に光を与へたる神に感謝する。凡(すべ)てが感謝である。俺の身の上に起り来る凡ての出来事。たとへそれが喜にせよ悲しみにせよ善にせよ悪にせよ凡てが感謝である。一切が神の御旨のまゝである」

さらに続ける。「俺の両腕には国家と世界がかゝってゐる。確(たしか)にかゝってゐる。日本の國の運命も全人類の運命も此の俺の肩にかゝる。俺こそ本当の志士であるべきだ。(中略)全人類が滅びてゐる。此の人間の身代りになれ! 滅亡へ行く人類を引き止めよ。人類を背負え。神様、父さま、イエスよ。願はくは我をして救主たらしめよ。私の全身をささげます。生涯をささげます。私につける凡てを捧げます」
以後、中田は毎週のように、本間のもとに通うようになる。しかも片道5時間、往復10時間、徒歩で通い続けた。「わが心の自叙伝」(前掲)にはこう記されている。「(本間との)初対面の日から、この方が私の人生への悩みに的確な回答や考え方を与えてくれることを知った。私の喜びはこの上なく、その後も日曜ごとに朝早く起きて二、三の友人ととともに山を越え、野をわたり、約二十キロの田舎道を歩いて十時までに秋吉村につき、礼拝に参加した。私にとっては学校の授業よりも秋吉通いの方が生きがいに変っていった」
実際に、博物館からの帰りがけに、中田が友人と共に歩いたであろう山道を車でたどってみた、、、、、

2025年04月27日号 06・07面掲載記事)