コンパッション共感共苦―福祉の視点から③
コイノニア―苦しみすら共有する
木原 活信 同志社大学社会学部教授
キリスト教会では、おなじみの「交わり」という用語について改めて議論の余地はないが、案外そこにある根本精神を忘れがちである。この言葉は、ギリシャ語のコイノニアであるが、その派生形含めて実は聖書の根本としても重要である。
たとえば、「キリストの苦難にもあずかって」(ピリピ3章10節)、「私と苦難を分け合ってくれました。」(ピリピ4章14節)という表現はコイノニアの派生語である。ここを「キリストの苦難と交わって」「私と苦難を交わってくれた」と訳せば、意味不明となるが、「苦難を分かち合う」と訳せば意味が伝わり、本連載の主題であるコンパッションの「共感共苦」とも連動してくる。つまり、コイノニアの原義は、「共有する」「分かち合う」である。初代教会では、持ち物すべてを共有していた。誰も自分だけの所有とせずに分かち合う精神がそこにあった。経済状況が違う資本主義社会の現代社会に文字通りこれを適用すれば無理が生じるが、そこにある根本精神は忘れてはならない。時間、喜び、そして苦しみ、それらを共有する(分かち合う)ことの大切さである。
ところで、このことが腑(ふ)に落ちたのは、聖書研究や神学研究からではなく、説教からでもない。実は幼い息子からであった。
幼稚園の時だったと思うが、園で遠足があった時のこと。息子はタラコのおにぎりが大好物で、この日ばかりは母親に大きなタラコの入った大きなおにぎりを一個こしらえてもらって喜び勇んで出かけて行った。さて、その遠足から楽しそうに帰ってきた。母親が「おにぎり美味(おい)しかった?」と聞いたら、彼はこう言った。「うん、美味しかったよ。でもね、今日ね、〇〇ちゃん、弁当忘れていたから僕のおにぎり半分あげた。だから〇〇ちゃんと半分こして一緒に食べた」。この言葉に、我々両親は不意を打たれ驚いて言葉を失っていると、息子は矢継ぎ早に「お母さん、いつも言ってるやん、受けるよりは与えるほうが幸いって」。息子の思わぬ言葉に目がしらが熱くなったのを覚えている。実はここにコイノニアの精神そのものがある。つまりそれは「分かち合い」なのである。息子は、自らのおにぎりを友と分かちあったのである。そして息子と友達はおにぎりを通して喜びを共有したのである。

交わりは分かち合うこと
福音書を読むとイエスはいつも食事を囲んで交わりをしていた。社会から仲間外れにされた取税人、遊女、罪人たちと。使徒の時代の弟子たちもそれを踏襲し、「パンを裂き」「交わり」をしていた。食事、会話そのものが交わりではない。テーブルを囲んで食事、会話という時と空間を通して、キリストにある喜びを分かち合い、ある場合は痛み苦しみをも共有し合うことが交わりなのである。
さて、聖餐式や愛餐会は、コロナ禍で感染を広げるものとして中断された。礼拝説教などはオンラインで届けることができるが、聖餐や愛餐はオンラインではできない。結果的にこの期間、大切な時と場所が失われた。失ってみてわかるものがある。聖餐や愛餐は単に物理的な儀式であるとか、食事の時間ではなかったのである。
聖餐は過ぎ越しの祭りの伝統に由来するが、そこに新しい契約としてイエスが自らの身体を与えられたことを教えられた。私たちは、この一つのパンと杯にあずかることで、イエスの味わった苦しみを再現するだけでなく、それを共有する一つの「いのち」ある共同体としての自覚と喜びが芽生えるのである。
その意味で、共感共苦(コンパッション)とコイノニアは密接につながりあっており、イエスに由来する信仰の核心と根源にかかわるものである。と同時に、今、教会で一番欠けているのも実はその精神なのかもしれない。
