第8回:「飼葉桶に寝かせた。…彼らのいる場所がなかったからである」

木原 活信 同志社大学社会学部教授

そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカの福音書2章7節)

クリスマスシーズンになれば、「布にくるんで飼葉桶」で静かに眠る赤子のイエスの光景は教会関係者であれば誰もが想像できるお馴染みの光景である。そして、それは聖画などにみられるノスタルジックな美しい光景として理解されているのであろう。ところが、学生たちと一緒に上記の聖書箇所を読んでいたとき、学生の一人が予想外の反応をしたことがある。実はその学生Aさんは、生後まもなく親に捨てられ、「置き去り」にされたところを措置されしばらく乳児院で過ごしたが、あるクリスチャン家庭に引き取られ、養子縁組をし、その家庭のなかで愛をもって育てられた。社会福祉を専門的に学び今はソーシャルワーカーとなり、また自分の体験についてもメディアなどで公に語るなどの啓発活動にも尽力している。そのAさんが、「その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかった」という箇所に強く反応したのである。しみじみと「まるで私みたい…」と感想を漏らした。Aさんにとっては、飼葉桶に寝るイエスの姿はノスタルジックな美ではなく、それは惨めな、弱さの極みとして理解されたのである。
確かに、このクリスマスの光景を冷静に読み返してみると、イエス(マリアとヨセフたち)は好き好んで飼葉樋で寝かされたわけではない。聖書の記述を正確に読むと、普通の人間の寝る宿屋すら「場所がなかった」というのである。だからやむなく、宿屋ではなく、家畜小屋の飼葉桶で寝かせざるを得なかったのである。「赤子が飼葉樋で寝る」ということを改めて想像すると、それは赤ちゃんの場所としては最も不適切なものであろう。動物の餌の桶であり、当然ながら不衛生極まりないのは言うまでもない。また家畜の匂い、また周囲は糞尿(ふんにょう)の匂いもきつく漂ったであろう。そこは惨めさと弱さと小ささの極致であった。赤子は、周りに歓迎され、特別にケアされる存在として生を受けるべきである。ましてや神の子のイエスであれば、王宮や黄金の特製ゆり籠と暖かい羽毛ふとんのようなところで寝かせられても当然であるが、実際は、人間以下の家畜同然にその誕生を迎えられたというのである。なんという惨めな生活であろう。そう言われてみればノスタルジックな光景とは真逆である。

「居場所のない」イエスゆえ、人々の「居場所」に

つまりAさんが常識に囚(とら)われず読み取った聖書の記事の理解は、自らのつらい体験に飼い葉桶に寝かせられたイエスの姿を重ね合わせた共感共苦の視点であった。実はこの読み方のほうが、聖書が伝えたいメッセージの神髄を突いているのではないだろうか。イエスの誕生の仕方は、弱くなられた謙虚な歩みの原点そのものであったが、これこそが、イエスの全生涯を象徴していた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(マタイの福音書8章20節)という意味で、それは居場所のない人生そのものであった。ところが、不思議なことに、このイエスのもとには罪人、遊女、取税人、病人、貧しい人が集まった。かれらは当時の社会から疎外され仲間外れにされた居場所のない人たちであった。そしてイエスを囲んだ不思議な居場所(共同体)が生まれた。「罪人の友となられた」ということが実現した結果であるが、それはイエス自身がこの地上には「居場所のない」生涯を送られたゆえに、同じように「居場所のない」当時の人々に共感共苦できたのであろう。そう考えると、居場所というのは、共感共苦によって生まれてくる意味空間であるということができる。

《連載》コンパッション 共感共苦 ― 福祉の視点から