【2・11信教の自由特集】入り乱れる偏狭な信仰、正義、政治…俯瞰して問題整理を 寄稿 上中 栄(日本ホーリネス教団旗の台・元住吉教会牧師)

「信教の自由」めぐるカオス

 

最近の「信教の自由」をめぐる状況は、ちょっとしたカオス(混沌)だと思います。改憲論議で語られることが多かった「信教の自由」は、旧統一協会の問題が加わってからは、宗教団体の自己保身のツールのような扱いになっています。また、「信教の自由」は公権力からの自由ですが、ウクライナでの戦争では、教会と公権力の関係が戦争と平和をめぐってクローズアップされています。

宗教離れしたと言われる現代社会にあっても、キリスト教をめぐる問題は広範囲にわたります。それにしても、多くの意見が入り乱れ、何をどう考えればよいのか分かりにくいと感じます。カオスです。

 

 多様か雑多か

 

例えば、立憲主義や戦時下の反省を主張すれば「パヨク」、政府の意向を支持したり日本の独自性を主張すれば「ネトウヨ」、といった蔑称でのなじり合いが、改憲論議では定番です。キリスト教界の状況も、似たようなものです。

また、日本の急な安全保障政策の転換や防衛費の増額は、ウクライナばかりでなく、北朝鮮や台湾の情勢を考えれば当然だともされます。そこには、ナショナリズムに煽(あお)られたような威勢の良さが感じられ、また、武力によらない平和を訴える人の頭の中は、「お花畑」だと揶揄(やゆ)されます。

旧統一協会をめぐっては、異端の教義や多額の献金などを批判すべきとしても、伝統的なキリスト教が正統性を主張しても説得力に欠けます。「宗教」として似た要素があるからです。また、宗教法人の問題になると、税制上の優遇措置が批判の対象になりますが、キリスト教界でもその根拠などはそれほど理解されていません。そもそも、公権力を批判しながら、税制上の恩恵だけを享受するのは、無節操とも言えます。さらに、災害やハラスメントの被害者支援と、カルト問題のそれとでは勝手が違うようですが、ではその隣人愛の違いはどう説明できるのか、難しい課題だと思います。

 

 民主主義の両側面

 

しかし、カオスであっても多種多様な意見が飛び交ってこそ民主主義です。人間が生まれながら自由で平等に神に造られているという、アメリカの独立宣言のように、近代の民主主義はキリスト教の価値観とかかわります。キリスト者が関心を持つのは大事なことです。

他方、その価値観はマニフェストディスティニーと呼ばれ、覇権主義を正当化したという負の面もあります。昨年のサッカーW杯で、開催国の人権問題を欧米諸国が批判したのに対し、FIFA(国際サッカー連盟)会長が、「欧米人は道徳について説教する前に、世界中で3千年間やってきたことを、3千年かけて謝罪し続けるべきだ」と反論しました。

この反論についての評価はともかく、3千年でなくても、この数百年間のキリスト教圏の欧米各国の政策が、環境問題や地域紛争など、解決困難な国際的な問題を多く引き起こしているのは確かなことです。

謝罪や反省のない正義だけが声高に主張されても、非キリスト教国の賛同が得られないことは、ウクライナ情勢にも表れています。そうかと言って、謝罪慣れした日本社会や、悔い改め慣れした日本のキリスト教界で、実のある議論ができているとも思えません。

 

 カオスをおもしろがる

 

いっそのこと、こんなカオスな状況をおもしろがってはどうでしょうか。このような物言いは、傍観者の上から目線だとか、被害者の視点が欠けると批判されるかもしれません。きれいな言い方をすれば「対話」なのでしょうが、そうした批判も含めてこれだけ偏狭な正義が飛び交う中では、少し俯瞰(ふかん)気味に問題整理をしていいように思うのです。

まずおもしろがるのは、カオスな状況です。繰り返しになりますが、多種多様な意見があってこその民主主義です。その意味では、今日の状況はあながち悪いものではないと、肯定的に捉えることもできます。

次に、偏狭な正義です。正義は大事ですが、偏狭な正義と誹謗中傷は、紙一重でもあります。傷つける言葉を食らっても、笑って受け流せばいいでしょう。同様に、自分の偏狭さの自覚も大切です。カオスの中で自分の立ち位置を見極めるのは、案外難しいからです。時には反省するとしても、自分をおもしろがる余裕をもって切り替え、前進すればいいわけです。

民主主義は維持しなければ壊れてしまう弱い制度であり、「信教の自由」についても注視が必要です。キリスト教的な価値観も、つくり続けなければなりません。《平和をつくる者は幸い》という聖句を、当てはめて考えてもいいでしょう。おもしろがりながらも、この「信教の自由」をめぐるカオスに抗(あらが)ってみたいものです。