熊本バンド140周年 その足跡を訪ねて 迫害の中信仰を守り通した学生たち 動乱の時代を見つめて

(記事前半はこちら)「熊本バンド」。草創期の同志社英学校(後の同志社大学)を支え、後に、キリスト教界のみならず、明治期の日本社会に多くの人材を輩出したその一団は、すぐれた学力と、粗野ではあるが活発旺盛な気風に富み、周囲からそのように呼ばれた。実際彼らは、故郷熊本から遠くはなれた京都の地で、内実をともなった存在感を示していたのであろう。熊本バンド140周年にあたり、同志社大学は「同志社フェアin熊本〜ゆかりの地に集う〜」を開催。そのプログラムのひとつである「熊本バンド・同志社ゆかりの地ツアー」に同行した。【髙橋昌彦】

後に熊本バンドを生み出す熊本洋学校は、1871年に当時の熊本城内、古城の地に建てられた。その教師館である「ジェーンズ邸」は、現在県指定重要文化財として、熊本城の東南、水前寺公園横に移築されている。建坪70坪、正面10間奥行き7間の総2階建ての建物は、熊本県内に現存する最も古い洋風建築である。中村敏著『日本プロテスタント神学校史―同志社から現在まで』(いのちのことば社)から、熊本洋学校に関する記述を引用する。DSC06799

─明治維新において明治政府に参画したものの、近代化の時流に乗り遅れた熊本藩は、人材の育成を図るため、1871年、熊本洋学校を設立した。その校長としてアメリカから招聘されたのが、L・L・ジェーンズであった。彼はウェストポイント陸軍士官学校で学び、北軍の軍人として南北戦争に従軍した人物である。彼の妻ハリエットは、多くの宣教師(特に宣教医)を輩出しているスカッダー一族の出身であった。
来日したジェーンズは、ウェストポイント陸軍士官学校の規則正しい寮教育とイギリスのパブリックスクールの名門ラグビー校の人格教育を目指し、洋学校の教育を開始した。このような意気込みで始めたジェーンズの教育ぶりは峻烈を極めた。学業や性行の面で不十分な者は、容赦なく退学となった。ジェーンズは、すべての科目を英語で自ら教えた。こうした厳しい教育に鍛えられた学生たちの進歩は、ジェーンズ自身も驚くほどのものであった。DSC06819
彼は最初の頃、まだキリスト教が禁止されていたこともあって、キリスト教について一言も言及しなかった。しかし開校から3年たったある日、学生たちに対し、自宅で希望者に聖書を教えることを伝えた。毎週持たれたこの聖書研究会に、30、40人ぐらいの学生が集うようになり、この参加者の中から信仰を告白する者が続出したのであった。1876年1月末の日曜日、信仰を決心した洋学校の学生たち約40人が熊本郊外の花岡山に登り、用意した「奉教趣意書」を朗読し、35人が署名した。この文章は非常に格調の高いものであり、キリスト教の教えを宣べ伝えることによって日本の人民を導こうという、国家主義的な性格がよく表れている。このことを知った洋学校の関係者や学生の家族の者たちは非常に驚き、大騒ぎとなった。その結果ジェーンズは解雇され、洋学校は閉鎖されてしまった。周りからの迫害の中で信仰を守り通した学生たちの多くが、ジェーンズのアドバイスを受け、前年に開校したばかりの同志社に移っていった。─

実際、彼らの学力は非常に高かった。洋学校の第一期生は、受験者500人に対し入学者46人、卒業者11人。当時の選りすぐりの俊英が集まっていたものと思われる。転校した同志社においても、他の学生との学力差は歴然としており、開校間もなくまだその学校としての内容が整っていなかった同志社の教育環境に対する彼らの不満は大きかった。「自分たちにはふさわしくない学校だ」と考えた彼らは、東京(東大)に行くことをジェーンズに相談するが、ジェーンズは「それなら自分たちの理想とする学校に近づけろ。今やめるのは卑怯だ」と言って彼らを留めたため、彼らは同志社に残り、自ら教育課程や、学則、寮則を整えていった。彼らの要望で「余科」といわれる神学教育課程が設けられ、神学や哲学などの専門的な教育がなされるが、そこでは最初、宣教師たちは日本語で教えていたが、彼らの日本語は未熟であったので、学生たちの要望で、英語による講義が行われるようになる。これも、熊本バンドの学生たちが、洋学校時代にジェーンズにより厳しい英語の訓練を受けていたからこそ、なし得たことであろう。
「熊本バンドの学生たちは、学力において他の学生たちを圧倒し、教師にも迫る勢いであった」「信仰の立場は、師であったジェーンズの影響を受けて自由主義的、進歩的であり、保守的な神学的立場の宣教師たちの教師陣としばしば対立やトラブルを起こした」と、先の著書で中村氏は書いている。
同志社英学校余科は1879(明治12)年6月に第1回卒業式を迎えるが、その日卒業した15人すべてが、熊本バンド出身者であった。アメリカン・ボードの宣教師で、同志社英学校の設立に参加しているジェローム・デービスは「熊本からの輸血がなかったら、同志社はなかっただろう」と、述べている。歴代の同志社総長(当時は「社長」といった)のうち5人が熊本バンド出身者である。確かにそこからは、海老名弾正、金森通倫、小崎弘道、宮川経輝、横井時雄等、日本のプロテスタント教会において大きな役割を果たした有力な人材が多く輩出した。

徳富記念園に向かう。ここには、徳富蘇峰(猪一郎)、盧花(健次郎)兄弟がともに住んだ徳富旧邸と2人の資料を集めた徳富記念館が建っている。2人はともに熊本洋学校の後、同志社英学校に学んだが、蘇峰は奉教趣意書に署名したメンバーであるものの、盧花はその時には参加していない。

蘇峰は1882年(明治15年)3月に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設。1886年(明治19年)の閉塾まで、武士や豪農の子どもたちが毎月50人程度、この塾で学んだ。塾創設時、蘇峰は実に19歳で塾長になっている。蘇峰に義塾を開くように勧めたのは新島襄だが、一時期塾生が激減し塾の存続が危ぶまれた折り、彼は蘇峰を励ますため、植物「カタルパ」の種を贈った。その後義塾は勢いを取り戻すが、園内には見事に育ったカタルパの樹が今も立っている。1876(明治9)年10月に熊本で起こった神風連の乱(明治政府に対する士族の反乱)でこの旧邸近くの種田少将宅が襲撃された際、当時8歳の盧花は、母とともに2階に上がり雨戸の陰から城下を眺めている。その時の記憶をもとに書かれたのが『恐ろしき一夜』である。(以上、徳富記念館パンフレット参照)

徳富記念館をあとにして、ツアーは熊本草葉町教会に向かった。この教会は、奉教趣意書に署名した海老名弾正や横井時雄が牧師を務めた教会である。礼拝堂には奉教趣意書のレプリカが掲げられている(原本は同志社大学資料室蔵)。
ここでは、ジェーンズが洋学校の生徒らに食べさせたというシチューを再現して振る舞っていただいた。ジェーンズは、当時の塩分の多い日本食に不信感を抱き、生徒たちに栄養たっぷりのシチューを食べさせたという。キャベツ、タマネギ、じゃがいも、ブロッコリー等、たくさんの野菜を入れ、トマト味で仕立てたシチューはとても素朴な味でおいしく、生徒たちの学業、素行だけでなく、健康面も気遣っていたジェーンズの人柄が偲ばれた。

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