旧約聖書における戦争 現代の暴力に帰結する解釈の危険性に警鐘 日本福音主義神学会東部部会春期公開研究会から

左近氏

「旧約聖書における戦争」をテーマにした、日本福音主義神学会東部部会春期公開研究会が5月12日に東京・千代田区のお茶の水クリスチャン・センターで開かれた。講演では『聖書における和解の思想』(日本キリスト教団出版局)の編者で旧約学者の左近豊氏(青山学院大学教授・宗教主任)が「旧約聖書における戦争 旧約聖書は戦争をどう語り継いだか」と題して語った。

 

 左近氏▽歴史像を謙虚に学び、聖書信仰に立つ

 

冒頭では、戦争中のロシア、ウクライナ、イスラエル、ハマス、加えて西欧、米国がキリスト教、ユダヤ教、イスラム教を背景にしており、「時に聖書を盾にした、暴力、戦争がまん延してきた」と問題提起。4月に編著刊行した『聖書における和解の思想』の研究成果にも触れ、「シャロームは、戦争が無いだけではなく、不正義、貧困、構造的暴力がなくなることも言う。聖書の中で、構造的暴力を含めての戦争をどう考えたらいいのか」と述べた。

古代イスラエルは、南は大国エジプト、北からの古代メソポタミアの諸帝国に挟まれ、交易の要衝であり、緩衝地帯であり、覇権がせめぎあう最前線であった。この地は、出エジプトからバビロン捕囚まで「戦闘と殺戮(さつりく)に脅かされ、晒(さら)され続けた期間であり、人間観も世界観も戦争のリアリティに彩られ、深く影響を受けたものとなっていたと言える」と説明。

中でも、紀元前8世紀以降に、古代イスラエルの人たちの価値観や観点に多様な影響を及ぼしたアッシリア文化とそのプロパガンダによる「アッシリア・イデオロギー」への抵抗について、旧約学者T・レーマーの『ヤバい神』(新教出版社)の見解を示しつつ、紹介した。「聖書の『戦争物語』には、アッシリアの『戦争物語』との対決がある」として、「この文脈と切り離して、聖書そのものの『戦争』観として誤解し誤用する」ことを戒めた。

聖書解釈の立場として、「神が与えられた理性に基づく考古学や史学によって明らかにされてきた『史的イスラエル』像をも謙虚に」学びつつ、キリストによる救いの視点で、「旧新約聖書を両方共に『信仰の規範』、『正典』として信じる信仰に立つことが求められ」ると念を押した。

 

 一つの「戦争観」でくくれない

 

「聖絶」については、倫理的判断を棚上げする傾向(J. Pedersen,T.R. Hobbs,Stieglecker,Seabury&Codevilla)、神の裁きの神学の範疇(はんちゅう)で捉える立場(Eichrodt、Craigie、G.E. Wright)、「聖絶」全てを批判的に論じるPaul Hanson、「聖絶」の語りが多様であるとするSusan Niditchの見解を紹介した。

「旧約聖書における戦争の記述、とくに『聖絶』の描写については、その書き方、読み方、共同体の置かれた文脈、思想的・神学的意図などが複雑に錯綜しており、〝旧約聖書の戦争観〟として括(くく)ることは本来、困難」と指摘。このような複雑な解釈の手続きをへずに「テクストを征服者の物語として誤用してきた解釈史、影響史を教会は持っている」として、「アマレク人」に関する記述をネイティヴ・アメリカンの殲滅(せんめつ)の正当化に用いた説教者が少なからず存在した例を挙げた。

「この過ちから完全に自由であるか、常に顧みる必要がある。み言葉によって常に改革される信仰によって、神学的に相対化され続けるために、旧約聖書を総体的に読み続けることが求められ」ると警鐘を鳴らした。

 佐藤氏▽二元論が分断や 矛盾を作り出す危機感

佐藤氏

応答には佐藤潤氏(東京基督教大学非常勤講師)が立った。自身、教壇では、「いわゆる『リベラル対保守』という対立は過去のもの」と勧めていることを紹介。「『リベラルと保守』あるいは『学問と信仰』、『科学と聖書』というような二元論」が「最終的に、社会や教会に、あるいは信徒や若者の人格形成にも、分断や矛盾を作り出してしまうという危機感」を示した。

左近氏の発表を受けて、①教会の聖書解釈の責任の重さ、②聖書の多様性と内的発展、③「聖絶」への見解、という三つのポイントで応答した。①では、聖書記述の地政学的・歴史的環境、文学的・修辞的側面を無視して現実に適用した「歴史的な悲劇」を認め、過去の過ちから、自らの聖書の読み方、 解釈の方法を見直すことを勧めた。

②について、「複雑な旧約聖書の証言を、単純化・画一的にしたいという誘惑」を認めつつ、「『真のシャローム(平和)を究極的には求める思想』は旧約聖書においては未完成であり、発展途上であるという認識」を肯定した。

③について、「旧約聖書は、古代イスラエルが神の名を用いて、異民族を虐殺したという歴史を有することを正直に証言している」ことを認め、「神」の名前を用いて、「構造的暴力や差別を容認したり、間接的に戦争や分断を支援」していないかという自己吟味を求めた。

 

 日本の教会も「部外者」ではない

 

質疑応答では、旧約における異なる思想のせめぎ合い、「神の言葉」と「人間の言葉」、詩篇などで敵を呪う記述、などについて論じられた。

最後の挨拶で、日本福音主義神学会東部部会会長の山﨑ランサム和彦氏は、「聖書をどう読み、捉えるかの根本を見つめる機会となった。この瞬間も、悲惨な戦争が、神の名や聖書を根拠になされる現実がある。日本の私たちも部外者として傍観できる問題ではない」と語った。【高橋良知】