会計管理を豊かなものに
河野 優 石神井福音教会協力教師、前日本同盟基督教団法人事務主事
教会に会計奉仕の担い手がいない―このような声をときどき耳にすることがある。会計奉仕と聞くと何か小難しく面倒で、苦手意識を抱いてしまうように思う。確かに、数字はごまかしがきかないため1円の違いも許されず、その処理は面倒で責任も重く、できれば避けたくもなる奉仕と言えるだろう。
教会も地上においては一つの団体であり、団体運営において会計が明朗であることは、言うまでもなく求められるところである。会計管理を適切にするためには、複式簿記や会計ソフトを用いるなどし、奉仕者には一定の経理能力が求められるだろう。
しかし、現実として経理の経験や知識のある会計奉仕者はさほど多くないと思われる。先日天に召された私の母も、経理の知識や経験はないものの、長らく会計奉仕者として教会に仕えていた。そのため、適切な会計管理を継続して行っていくためには、専門的な知識や経験がなくともできるような処理方法、教会会計ソフトの導入などが必要である。これらは一教会だけではできないこともあるので、教団や教派、地区の教会などが協力し、積極的に担うことが求められる。
また、会計状況が厳しくなると経常費用の支払いが滞る可能性が生じ、その都度会計奉仕者が不安に襲われ、精神的に大きな負担を強いられることになる。そのような時にも、その責任や負担を会計奉仕者に負わせるのではなく、役員会などを中心に教会がともに担い、奉仕者をねぎらい、祈り支えることが必要である。
重く、しかし恵みあふれる幸いな奉仕
さらに、「教会会計の歴史をひも解けば、その教会の歩みが分かる」と言われるほどに、教会会計は重要である。教会では毎月の月次会計報告や、1年間の決算報告などが作成されると思うが、それらを見て「教会の歩みが分かる」と感じたことがあるだろうか。もちろん、会計報告だけではわからないことはあるが、それでも週報や月報などの諸記録と合わせて見るときに、その教会の信仰が鮮やかに現れてくることがあるのだ。
例えばこんな話がある。ある教会で定期的に宣教団体への献金を行っていたところ、教会会計の状況が厳しくなり、しばらく外部への献金を控えることが検討された。しかし役員会では、祈りと献金をもって宣教団体の働きを支えることは神から与えられた使命であり、「支える教会」として信仰をもってささげることと確信し、それまで通りに献金を続けた。その後、教会会計は満たされ、教会の宣教活動も守られた。
客観的に見れば、会計状況が厳しい時には一定程度の支出削減を検討し、外部献金は真っ先に削られそうなものである。しかし、信仰をもってささげ、支える教会として歩みを続ける中で、主なる神が必要を満たし、教会を祝福してくださった。教会の決断と姿勢、神様の守りと祝福は、会計を含む教会の記録として神と人の前に残されることになる。
こんな話もある。牧師謝儀が予算通りの額を渡せなくなった時、教会では不足分を「未払謝儀」として処理し、会計報告にも記載した。教会の祈りとして覚え、一人ひとりが主の前に信仰をもってささげることで、時間はかかったが計上した未払分も含めて牧師にお渡しすることができた。
このような処理が正しいかどうかはわからないが、少なくとも牧師謝儀に対する教会の考えや姿勢が表わされていると言えるだろう。
教会会計の管理は言うまでもなく大変な務めであるが、このような恵みあふれる主の御業を真っ先に見、味わうことのできる幸いな務めでもある。実務能力を高め、霊的な感性を研ぎ澄ますことで、教会会計の管理はさらに豊かなものとなる。
会計奉仕者の担い手がいないと嘆くとき、教会会計の管理とはこのように幸いな務めであることを私たちは覚えているだろうか。


《連載》教会実務を考える