「自死を悼む人は幸いである」(ミア・ストウヴ) 苦しむ人と連帯するJ・B・メッツの神学
自死に関して日本でも米国でもキリスト教会では、「自殺した人は天国に行けるのか?」と問題にされるように、救済や罪と罰に結びついた感覚があるようだ。そうした中で本紙提携の米国福音派メディア「クリスチャニティトゥデイ」が2022年9月28日付で掲載した、同誌コンテンツ・マネージャー、ミア・ストウヴ氏の記事「自死を悼む人は幸いである(Blessed Are Those Who Mourn Suicide)」は、自殺とキリスト教信仰について別の角度から光を当てた、示唆に富む小論だ。
痛む人をケアすることは
豊かな苦悩の神学を必要とする
世界保健機関(WHO)によると、毎年70万3千人が自殺で亡くなる。2020年には、「自殺はアメリカ全体の死因の第12位であった。さらに、10~14歳、25~34歳では死因の第2位、35~44歳では死因の第4位となっている」と報告された。
教会は自殺の問題に敏感になっているが、その話題は時として、救いと罰の問題に限定されてきた。もし、人が自ら命を絶ったら、その人は天国に行けるのだろうか、と。
もちろん、私たちはその質問に完全に答えることができるわけではない。イエスは神のさばきの力を持つ唯一の方である。そして、もっと重要なことは、誰かの永遠の運命について議論することは、より大きな機会を逸してしまうということである。自殺は、「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか?」という悲痛な叫びなのだ。信者である私たちには、見捨てられたと感じる人に出会い、彼らにとってのキリストとなるチャンスがある。
別の言い方をすれば、私たちの救いの神学は重要だが、まずは少なくとも、私たちの教会において自分の人生を終わらせようと考えている人をケアするという意味で、私たちの苦しみの神学はもっと重要なのだ。
社会学の研究者を目指していた私は、オックスフォード大学での研究プロジェクトのために、学部生時代の4か月をこの問題の研究に費やした。私が聞きたかったことの一つは、「神学、つまりキリスト教の観点から苦しみを理解することは、自殺へのアプローチにどのように反映されるべきか」ということだった。
自殺と神学が交差する領域でパイオニアであるエリザベス・アンタスは、「医師によるほう助死を超える自殺の圧倒的な事例を分析するとき、キリスト教神学者がしばしば軽視してきた精神疾患の厄介な役割に直面する」と書いている。
彼女はこのテーマについて、神学と人間中心の対話のための有望な視点を提供するドイツの神学者ヨハン・バプテスト・メッツを研究対象としている。彼の神学は、苦しむ人々と連帯して生きることを学ぶことにある。 メッツは『A Passion for God: The Mystical-Political Dimensions of Christianity(神への情熱|キリスト教の神秘的・政治的側面)』の中で、「私の考えでは、すべての偉大な文化や宗教が認める一つの権威、それは苦しむ人々の権威である」と書いている。「他人の苦しみを尊重することは、すべての文化の前提条件であり、他人の苦しみを明確にすることは、真理に対するすべての主張の前提条件である。神学が主張するものでさえも」
メッツは、教会の人々が、自死と向き合っている人々と共に嘆く共同体になることを可能にする「開かれた姿勢」を受け入れるように望んでいる。彼は、この犠牲者に敏感な神学を、クリスチャンが神に生々しい怒りに満ちた質問をすることを可能にする解放的な実践とみなしている。
「キリスト教の神学でさえ、創造の教義に基づき、『神は何を待っているのか』という終末論的な叫びを排除することはできない」とメッツは書いている。「キリスト教神学でさえ、ヨブの『いつまで?』という神への問いかけを、なだめるような答えの中で沈黙させることはできない。キリスト教の希望でさえ、黙示録的な良心に責任を負わされたままなのだ」と。
ボストン大学神学部で教えるアンタスは、メッツが 「自殺者をより大切にする神学」を提供していると主張する。
キリストのもとでは、私たちはみな神に向かって叫び、その理由を問う自由がある。自分自身が心に傷を負っている場合でも、苦しんでいる人を知っている場合でも。福音書の物語の中心には、苦しみを経験された神がおられる。
「十字架につけられて復活したメシアを信じるキリスト者にとって、苦しみは常に意味がある」と、『Darkness Is My Only Companion: A Christian Response to Mental Illness(闇は私の唯一の伴侶―精神疾患へのキリスト者の責任)』の著者キャサリン・グリーン=マックライトは書いている。「私たちがその苦しみにあずかるお方、イエスのおかげで、苦しみは意味を持つのだ」と。
クリスチャン生活の文脈で自殺について考えるとき、神が人間の苦悩に共感しておられることを知って、私たちは慰めを得ることができる。
神は私たちに、神の使者として、周りの人々にも同じことをするようにと呼びかけておられる。私たちが、つらい会話から遠ざかり、いつまでも恥や罪悪の物語を続けるとしたら、それは最悪のことだ。私たちにできる最善のことは、自殺について学び、苦しんでいる人々にリソースを提供し、彼らの痛みの中で一緒に嘆くことである。
人間を中心にした神義論は、特に自殺の文脈で、私たちを深い苦悩の叫びを聞くことへと解き放ってくれる。教会でこの問題を人間味のあるものにするほどに、私たちの間で苦しむために来られた方と同じようになることができるのだ。キリストのように。
(2023年05月28日号 06面掲載記事)