私は今大学で政治学を学んでいる学生ですが、学友や政治の現場で働く方々と「憲法改正」について論じる時、「社会の現実を見れば改正せざるを得ない!」「確かに現行憲法は理想的だけど、今の状況ではただのきれい事にしか過ぎない!」という意見を多く耳にしてきました。
そのような環境に身を置く中で、「果たして憲法は社会の『現実』によって簡単に左右されうるものなのだろうか?」という問いと共に、一人の国民として、また一人のクリスチャンとして、この問題をどう考えていけばよいのかを迷っていました。
昨今の国際情勢を見る中で日本の軍備状況はこのままで大丈夫なのだろうか、平和主義など理想にしか過ぎないのではないか、国民の多くが政治に関心を持たず参加もしないのならばもっと国家権力を集中させた方が政治はうまく回っていくのではないだろうかと、現状考察の上に疑問と意見を構成していく中でそのように考えていたこともありました。
しかし、私には決定的に抜けていることがありました。それは、自分の信じている神様がこの世界の創造者であり主権者であられることを全ての領域で告白すること、また今なおこの世界を統べ治めておられる方の御心は何なのかを第一に求めようとしていなかったことです。
神様の支配とこの世界を切り離すのではなく、今一度神の言葉を預かる預言者として、また今この地に遣わされている神の国の民として、神の愛と正義に生きる務めとは何なのかを、私たちの生きるこの地上の現実の中で具体的に考えていく必要に迫られたのでした。
このことを交わりの中で深めていく必要性を感じ、昨年12月にKGK(キリスト者学生会)の有志学生で「キリスト者として・政治について・考える会」を立ち上げ、毎回30人ほどで学びと議論、祈りと賛美の時を持っています。半年ほど活動をする中でも、やはり信仰の目で政治問題を見つめることは容易ではないことに直面させられています。自分たちの偏見・主観・経験をまず横に置き、真っ白な心で聖書の言葉を待ち望むことを通して神様の思いを知り、その上で謙虚に歴史と問題考察に向き合うことで現実との対話を図っていきたいと考えています。
「憲法改正」の問題の根本で問われていることは、日本という国家の基調を何とするのかという点にあるかと思います。現憲法は「基本的人権の尊重」の目的がベースとなり、「平和主義」「主権在民」が謳われています。そのゆえに国家のために国民がいるのではなく、国民のために国家があることを国家存在の前提・ルールとしていますが、自民党改正案は「現実の必要」と称してこれら三原則を崩して国民を支配する国家を目指しているように思います。私たちが守るべき国のあり方は何なのか、そのことが問われています。
この答えを考える時、『現実』にだけ目を向けるのでもなく、『現実の必要』の上に神の御心を後付けするのでもなく、まず神様の御心を求めることからはじめていきたいと思うのです。
