5月3日から5日まで、東京・台東区東上野の上野の森キリスト教会で開かれた「ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー」(同事務局主催)で、リージェントカレッジ初代学長のジェームズ・フーストン氏が「キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜」をテーマに6回の講義を行った。今回は3日目の講演の続き。
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自然の力が人間を襲う姿を描いた安部公房の小説『砂の女』を紹介した(7月31日号参照)フーストン氏は、「これは禅仏教の小説だ」と分析する。「人間が抱く自然への畏敬、人間と自然の一体化の認識は、禅仏教的解釈だ。聖書において人間は、他の被造物にはない固有のものが与えられており、また人間が他の被造物を管理する使命を創造者から委託された存在だが、そういう人間に関する認識は、禅仏教には全く見当たりません」
一方、西洋の芸術は、人間は自然の一部ではなく別の存在であり、自然を支配する権利があるという、歪んだ、個人的な認識を反映していると指摘する。「人間が自然を支配していくという考え方は、男性が女性を支配していくことに通じている。神は女性を、男性を助ける尊い存在として創造した。そして、人間はこの被造世界を適切に治める管理者としての使命が託されている。だから、西洋の芸術は征服がテーマになっており、キャンバスや紙の上で征服ということが様々な絵の内容として表現されているのです」
フーストン氏は、日本のおとぎ話である「うぐいす長者」について紹介した内容は以下のとおり。

──ある若い木こりの男が、今まで見たこともない豪華な屋敷を見つける。そこにいた若い女性は、男を迎え入れる。女性は買い物に行くため家を留守にするが、男にこうお願いする。『留守を守って欲しいが、一つだけ条件がある。倉が4つあるが、4番目の倉には入ってはいけない』と。男は一つずつ倉を探索し、家具や人を描いた絵に感動する。4番目の倉にたどり着いた男は、見てはいけないと禁止されていたにもかかわらず、中に卵が3つあるのを見つける。卵を手に取ったが、誤って落としてしまう。その時女が戻ってきて、男を厳しく叱責。その女は鳥に変身し、子どもがいなくて寂しいと泣きながら飛んでいく──
「これは、いのちの木の実を取って食べてはいけない、という禁止命令の仏教版と言ってもいい」とフーストン氏。「日本のクリスチャンたちは気づいてほしい。こうした禅仏教の象徴とも言える日本のおとぎ話には、聖書の創世記などからの模倣が見られる。舞台はエデンの園でなく、大きな森の中だ。しかし、おとぎ話が伝えたいメッセージは、いのちの木を取ってはならないという禁止命令ではなく、女性と関わってはならないということになる。日本のおとぎ話には、こうした聖書になぞらえたテーマが様々な形で表現されていき、禁止命令を犯した場合は、女性が何らかの動物に変化していくというモチーフが多い。主人公が自然の中に回帰していくというモチーフもある。自然は自然に回帰し、男は一人孤独の中に取り残される。こうした孤独に対し、禅仏教が提供する痛ましい解決策が自殺なのです」
「こういう物語の中で、女性がある意味主導権を握り貧しい男性を選ぶというモチーフが多く見られる」とも言う。「貧しい男が女性の結婚の申し出に対し、自分にはそぐわないと感じるが、女性のほうは諦めず、女性は男にどうしたら裕福になり富をどう使っていくか指南する、というような内容だ。これは日本が昔、女系社会であったという一つの現れではないでしょうか」
「このような日本のおとぎ話では、男が女によって祝福され、自分の行動によって呪われることはない」と指摘する。
「日本における信仰の伝承について、2つのことが言える。一つは仏教というのは、創世記1〜3章を巧みに解釈した宗教であるということ。2つ目は、両方とも物語だが、日本のおとぎ話は、イエスの譬え話と対照的なものであるということだ。たぶん、皆さんの中で神学を研究している方もおられると思うが、イエスの譬え話と、日本のおとぎ話を比較対照してみるのも面白いかもしれません」
(つづく)【中田 朗】
